第七回 ◇第六回 ◇第五回 ◇第四回 ◇第三回 ◇第二回 ◇第一回 ◇TOPページに戻る

<はじめに>
 重松清くんへ。
 このサイトの管理人・河本啓伸のことを覚えているでしょうか?
 君と私の共通の友人であるY崎T彦くんがこの3月27日に広島で結婚します。
 もし、この声が届くのなら、是非ご一報下されよ。いやいや、メール1通でいいんだ。
 いやぁ、人間・重松清の器の大きさを見せてもらいたいもんだのぅ....

◇連載第八回「忘れじの結婚披露宴」A 04.03.14up
 
 この連載を我慢強く読み続けている人なら、もう理解できるだろうが、披露宴会場は立食形式であり、飲み食いは自由なのであるが、ロクなものは置いてない。

 「気安さ」を前面に出したと言えば聞こえはいいが、実際には「安さ」がこの披露宴のコンセプトであることは、14歳以上の酩酊していない人間なら誰もが気づいたことであろう。
(それを責めるつもりは一切ない。当時の彼らにしてみれば、これだけのことを準備するのも大変だったはずだからね。)

 宴の進行もアバウト丸出しである。

 司会者(らしき人)が出席者の名を呼ぶ。その人が中央に出てきて、芸を披露する、もしくは、重松清について悪口を言う(時折、社交辞令を述べる人もいたが、それは本意でなく、新妻の○○○ちゃんに気を遣ったものと思われる)。それが延々と続く。

 やがて私の名が呼ばれ、『勇気ある船出』を熱唱したが、その頃には既に何名かの酩酊者が出ており、会場内には怒号も響く。私は内心、「歌まで作って歌って、おまけに祝儀まで出してこれかい?」と思ってはいたが、それでも、他の指名者がヤジられまくる中ではマシな方なのであった。

 まさに酒池肉林のカオスである。○○○ちゃんの友人の女の子たちのうち、幾人かは既に会場から消え去っていた、というのは言うまでもない。

 最後に話をしたのは、詩人であり、のちに直木賞を獲ることになる、ねじめ正一氏であった。無論、彼も既に酔っ払いの体を為しており、

 「重松くん。いやぁ、結婚するのか。そうか。おめでとう。おめでたいけど、一つだけ言いたい。結婚しても、オ●ニーの素晴らしさを忘れてはいかん。あれはセッ●スなんかよりずっと気持ちいい。以上。」
(編集注:青少年の読者を慮り、一部の文字を隠ぺいさせて頂きました)

 会場からはなぜか大拍手と意味不明の雄叫び。ほとんど修羅場と化している。直木賞を獲る作家にまともな人間はいない。断言できる。

 そして、いよいよ凄惨な披露宴のエンディングが訪れる....。
 
披露宴は異常な結末へ。以下、怒涛の次号へ

◇連載第七回「忘れじの結婚披露宴」@ 04.03.13up
 
 私は致し方なく、重松清夫妻のために曲を作ることにした。

 私はそれまでにも、その後にも友人・知人の結婚式のために数々の名曲(珍曲含む)を作ってきたが(再三に亘り、自分が作った曲に対して「名曲」と言うのは、ちょっとだけ心苦しいということをご理解頂けましょうか?)、今回は「歌詞」「メロディ」といった主たる要素というより、「タイトル」にその全てを捧げたと言って過言ではなかった。

 『勇気ある船出』

 最早、友人としての重松清というよりは、重松清の妻となる○○○ちゃんの、ごく近い将来に間違いなく訪れると確信された苦悩に対して、事前にエールを贈っておこうというものであった。よくぞ、重松清の嫁になる決断が出来た、と。

 そして、披露宴の日はやってきた。

 通例、私がわざわざ書き下ろしのウェディングソングを歌うということになれば、それは「式典のトリ」を意味するものであった。時に涙を、時に笑いを誘い、列席者に「祝儀を出してまで来た甲斐があった」と思わせるのがミュージシャンのサービス精神であり、祝福されるべき二人の門出を感動のクライマックスに導くのが予定調和というものである。

 が、勿論、重松清にその方程式は通用しない。

 まず、会場(都内某所にある●×▼学生会館)にピアノがない。

 重松清曰く「河本さんしか使わないし、借りると高いからさぁ。」

 置いてあったのは、会場に備え付けのヤマハのエレクトーン。これはなかなかの大敵である。というのも、普段、ピアノを弾いている者にとって、キーのタッチがあからさまに違うからだ(ピアノの方が圧倒的に重い)。しかも、使ったことのないタイプのもので、音色の変え方を教えてくれるような人もいない。

 私が泣きながら操作しているところへ、ギターを抱えた若者が一人やってきた。どうやら彼も重松清に無理やり呼び出されて、「伴奏」を担当するハメになってしまった可哀相な奴のようであった。どちらからともなく、同病のよしみで、ちょっとした挨拶をして、チューニングを確認した。彼がどうやらまともな人間のようで、少しだけ安心した。その彼こそがY崎T彦くんなのであったが....。
(詳しくは後述)

 私と彼の二人を除くと、出席者にミュージシャンらしき人物は見当たらない。会場内を徘徊していたのは、既に飲んだくれている作家や編集者と、その雰囲気にはどうしても馴染めそうもない、ごくわずかの、○○○ちゃんの友人の女の子たちだけである。彼女たちは、当然の如く、会場の隅で怯えていた。思い起こせば、重松清の両親はおろか、地元出身である○○○ちゃんの両親の姿さえなかったのであった。
(ま、そりゃそうか...)
 
いよいよカオスの様相を呈する次号

◇連載第六回「展開編」A 04.03.12up
 
 私とY崎T彦くんが初めて会ったのは、『Marigold U』を作ってから4年ほど経った、世にも恐ろしい“重松清夫妻の結婚披露宴”の会場であった。
(その4年の間には、実に様々なことがあったのだが、ここでは割愛します。また、その披露宴なるものがいかに凄惨なものであったか、ということについては後述します。)

 当時、重松清は早稲田を卒業して間もない、文学界では「知っている人以外は誰も知らない」という存在ではあったが、持ち前の強引さで、大学のクラスメートであった女の子(とりあえず、彼女の名誉のために、ここでは名前を伏せておきますね)を強奪し、家賃1万6千円の我が家に二人揃ってやって来て、

 「今度、結婚することにしたから、河本さんも結婚式に来てよ」

 と、言うではないか。ま、行ってやらんこともないが....。

 私の返事を待たず、重松清は続けた。

 「会費制なんだけど、河本さん、貧乏だから、学割で8千円でいいよ」

 「あっ、俺と○○○(彼女の名前だ)のために、歌作ってね」

 「あとさ、俺も歌うから、伴奏頼むね」

 重松清の傍らで、いかにも申し訳なさそうな佇まいの彼女。よくよく話を聞けば、彼女の両親は重松清との結婚に反対しており(当然だと思ったもんだ)、彼女自身は定時制高校の国語教師になるとのこと。

 これはつまり、あれか。ヒモってことか?

 私は、ひじょうに誠実な気持ちから

 「○○○ちゃん。悪いことは言わないから、別れた方がいいよ。世の中にはもっと君を幸せにしてくれる男もたくさんいるし、今までのことは病気に罹ったんだと思った方がいい。これまでに重松のような獣みたいな男と出会ったことがなくて、ちょっと騙されているんだよ。考え直しなさいよ。」

 と告げた。

 すると、彼女は気丈にも

 「私、彼のことを愛しているし、後悔はしないと思います」

 などと健気なことをおっしゃる。いや、たぶん、“売り言葉に買い言葉”“その場の雰囲気”ってやつなんだと思う次第だが。今も後悔していなければよいが....。
 
以下、さらに哀切の次号へ続く

◇連載第五回「展開編」@ 04.03.11up
 
Marigold U

振り向けばそこに何も残らない そんな愛し方するのは嫌だね
海よりも深く 空よりも広く お前を包んでいられたらいいね
おぉ二人でいても離れても 結ぶ糸はひとつ
どんな時でも忘れずにいて ときめいていた出会いを
飾らないお前がいい だからそのままでいて...

二人で行くなら遠い旅がいい 地平線見えるそんなところまで
あてなどないけど生きてゆけるだろう 夢も哀しみもみんな背にしょって
おぉ言葉せつなく立ち止まり お前を抱き寄せて
涙するかも 弱い男と思うならそれでもいい
奏でる愛のメロディ それはお前のために汚れなく響く

 
 と、こうやって詩を書き出してみるに、かなり情けない症状を露呈していると言えよう。曲は涙を誘うバラード調。作った本人は勿論「これまでで最高の傑作だ」と常に思うものらしく、よせばいいのに、私は出来上がった曲を重松清の前で披露した。

 ....が、重松清はいつものごとく既に泥酔しており、曲を聴いて何かを言えるような状態にはなかった。

 さて、ここからが本編だと思いなさいよ。

 この曲が熱視線&潤んだ瞳の彼女の気持ちを引き戻したのか、と言えば、答えは“No”ということになる。

 シンカーソングライターという人種は、恋をすればその人のために歌を作り、それを相手が喜んでくれれば空にも舞い上がる。離れてゆこうとする心を繋ぎ止めるのに、至上のラブソングを作ることなど当たり前。そして、想いが通じない時は、自分勝手に絶望的な気持ちにもなる。ひどく精神的揺れの激しい存在だ。

 そばにいると、ハッキリ言って煩わしい。
(ちなみに重松清はそういったことは全く意に介さないが)

 ま、それはどうでもいいか...。

 で、なぜこの曲を3月27日に歌うことになったかと言えば、私と重松清の共通の友人である元ミュージシャン(今は電気工事で毎日のように地面に穴を掘ることが生業らしい)のY崎T彦くんが、広島で結婚式を挙げることになり、そこで彼と嫁さんに捧げる、という趣旨である。

 ピアノの弾き語りなどというのは、ここ最近全くやっていない。というか、私は利き腕である右手をひどい腱鞘炎に蝕まれており、ピアノを弾くという行為は、自らの命を縮めてゆくようなもので、本来なら避けたいところなのだ。
(自慢ではないが、私のピアノは物凄い「我流」であり、尚且つ、ヘタれである。ちなみに、ギターに至っては腱鞘炎のため、まともにアルペジオすら出来ませぬ)

 しかし、この日に限っては頑張ってみようかと思う。それはね....
 

以下、哀切の次号へ続く

◇連載第四回「出会い編」C 04.03.09up
 
 ある夜のことであった。

 その頃はよくあることではあったが、私と重松清は、“いとでんわ”で二人きりで真夜中まで語っていた。と言っても、お互いの将来について熱く語る、といった類のものではけっしてなかった。私の方はかなり切羽詰っていたのであった。
(重松清はそんなことは意に介さない男ではあったが)

 当時、私はと言えば、熱視線&潤んだ瞳の彼女(連載第二回を読んでくれろ)との破局が迫っていることをひしひしと感じており、情けなくも「彼女の心を繋ぎ止めるための歌」を作ろうとしていた。

 しかし、自宅で夜中に歌を歌うなどというのは、自殺行為に等しかった。
(私は四畳半、風呂なし、便所共同、家賃1万6千円という、前時代的な木造ボロアパートに住んでいた。アパートの前の道には車が通れるだけの幅はなく、家事が起これば間違いなく周囲は全焼になったことであろう。壁は「薄い」というレベルを超え、隣の部屋を覗くことも可能であったし、窓がきちんと閉まらず、冬にどれだけ泣きたい気持ちになったことか)

 なのに、私は夜でなければ曲を作れないタイプだったので、曲作りは必然的に“いとでんわ”で行う慣わしであった。

 その夜も、文字通り“必死”の思いで「彼女の心を繋ぎ止めるための歌」を作ろうとしていたのだが、重松清が酔いも手伝ってか、いろいろと『アドバイス』をしてくれたのであった。

 曰く「河本さん、そこんとこのコード運びはありきたりだね。」

 曰く「河本さん、なんか歌詞が『俺は愛のことを全てわかってる』って感じだね。」

 曰く「河本さん、ちょっとビートルズの『エリナー・リグビー』歌ってよ。」

 曰く「河本さん、店の酒、ちょっと飲んでいい?」

 曰く「河本さん、女にモテないでしょ?」

 ほっといてくれ。

 私は彼の『アドバイス』にもめげず、曲を完成させた。我ながら名曲である。
(またしても、自分で言わねばならないところに、ちょっとした苦しさはあるんだが)

 『Marigold U』(マリーゴールド・セカンド)と命名されたその曲は、勿論、彼女の名前が「まり」だったことに由来する。
(『Marigold T』という曲があって、それで彼女のハートを射止めたのは言うまでもない。ということは、“二匹目のドジョウ”行為だったのか?うぅっ.....思い出すと泣けてくるぜ!)

 で、実はここまでは前振りである。

 重松清のアドバイスにもめげずに作られた、その知られざる名曲を、この3月27日、私は約20年振りに人前で歌うことになっている....
 
以下、急展開の次号へ続く

◇連載第三回「出会い編」B 04.03.08up
 
 当時、早稲田大学教育学部国語国文科の1年生であった重松清が、どういう経路で“いとでんわ”へ出入りするようになったのかは不明であるし、知ったところでほとんど価値もなかろう。しかし、重松清は大学界隈の「安く」飲める店を嗅覚で探り当て、飲んだくれるのは得意であった。それだけは間違いない。

 重松清が“いとでんわ”に於いてどういう客であったかと言えば、路上ないしは飲み屋で喧嘩を吹っかけるなどというのは日常茶飯であり、その時に決まって吐くセリフが

 「おぅ、俺は重松清だ。文句があったらいつでも“いとでんわ”に来いっ!」

 という、大変に悪質な客であった。なんで自宅に呼ばねえんだ?
(但し、それで喧嘩の相手が“いとでんわ”に来たか、と言えば一度も来たことがない。そしてそれは、重松清の喧嘩が恐ろしく強かったから、ということでなく、“いとでんわ”は発見するのが困難なほど小さな店だったから、と思われる。)

 岡山からやってきた、爆弾を抱えたような男はとにかく酒をよく飲んだ。

 私より学年では2つ下になる重松清(私は浪人していたから、大学では1学年下)であったが、酒を飲んで話をする時は「河本さん」という固有名詞以外は、すっかり対等以上の口ぶりであった。

 酔ってくると、重松清はいつも二つのことを言い出す癖があった。

(1)「俺はガキの頃、風呂に入るかわりに、妹と一緒に洗濯機に浸かってたんだ。そんな貧乏、河本さんに想像できる?」

(2)「俺はね、将来小説家になって、原爆のことを書こうと思っているわけ。河本さんは、ミュージシャンとかやって、何がしたいわけ?」

 重松清自身ですら忘れてしまっているかもしらんが、私は何度となく「洗濯機」と「原爆」の話を聞かされたので、重松清が酔っ払ってくると、「今日はどっちの話が出てくるのかな?」と臨戦体制を固めるのが常であった。

 で、その当時から思っていたことだが(実際、重松清にも言ったが)、「原爆はともかく、風呂がなくても洗濯機があるならそれほど貧乏じゃないんじゃないの?」

 事実、私がガキの頃、自宅には洗濯機はなかった。
(もしや、我が家も貧乏だったのだろうか?)

 いやいや、勿論、過去の言動をとらえて、今や有名人となってしまった重松清を愚弄しようというつもりは毛頭ない。読者諸兄の中にも重松清ファンはたくさんいるだろうし、かく言う私も重松清の作品をいくつも読んでいるのだ。
(重松清が重松清として最初に上辞した『ビフォア・ラン』などは、本人からの脅迫によって買わされたくらいだ。)

 まあ、文学者・重松清を褒め称える、もしくは批判する、といった行為は、その道の専門家がやってくれるであろうから、私は遠慮しておくし、そもそも、この緊急連載は、そういった意図で始まったものでなく、
 『人間・重松清』
 に対する呼びかけなのである。

 おい、聞いているか?重松清....
 
以下、緊迫の次号へ続く....(って、毎回「緊迫」なのか?、って毎回書くのか?)

◇連載第二回「出会い編」A 04.03.07up
 
 くだんのヘタれミュージシャンの演奏が終わると、ひげ面のマスターらしき人物が客席に向かって

 「お客さんの中で、歌ってみたいという人はいませんか?」

 と問い掛ける。カラオケじゃないぜ。演奏しながら歌うってことだ。

 これは悪いジョークだろうと思っていたが、同行の彼女が「歌ってよ」などと、ひげ面に聞こえるように言う。私は「楽器も準備していないし、ムリだ」と、ひげ面に聞こえないように言ったのだが、ひげ面は聞き耳を立てていたのか

 「お客さん、ギターなら彼(ヘタれミュージシャン)のがあるから使っていいですよ。」

 と来たもんだ。ちゃんと彼(ヘタれミュージシャン)の許可は得てあるのか?

 意に反して、私は彼(ヘタれミュージシャン)のギターを借りて、ステージ(と言っても、その上で一度ジャンプしたら破れそうなベニヤで出来ていたんだが)に上がることになってしまった。

 繊細な私は、身も知らぬ酔っ払いたちと、熱視線を送る彼女と、そして明らかに不機嫌な彼(ヘタれミュージシャン)、さらにはひげ面、というシミュレートしたことすらない客を相手に歌うことになった。

 歌うことにした曲のタイトルは『片田舎のロマンス』。笑うことなかれ。これがなかなかの名曲である。
(自分で言わねばならないところに、ちょっとした苦しさはあるんだが)
 バリバリのフォーク調。完璧な演奏と歌唱に、しばしの沈黙が流れる。

 そして、拍手喝采。
(正直に告白すると、ちょっとだけ脚色してあるよ)

 彼女は潤んだ瞳で私を見つめ、彼(ヘタれミュージシャン)は「負けた」という表情で力なく私からギターを受け取る。ひげ面は
 「今度、うちでライブやんなよ。」
 といきなりの出演交渉......。

 そんなこんなで、私はライブハウス“いとでんわ”に出演するのみならず、練習したり、時にはサクラとなって客席に陣取ることもあった。

 そのうち、あたかも“いとでんわ”の主のようになってゆく私であったが、そこに出入りする客は、ハッキリ言って“相当怪しい”輩が多かった。

 ひげ面マスターの人脈なのであろうが、「社長」と称する優しい顔したヤクザさん。

 皆から「レオさん」と呼ばれていた、昼間から店の中で賭博に興じる、どう見ても30を超えている自称・早稲田大学生。

 今なら間違いなく「ストーカー」と呼ばれていたと思われる根暗のカメラ小僧。

 減量が苦手なため、試合のたびに階級を上げてゆくボクサー。

 毎日のように営業の仕事をサボッては、レオさんと賭博をしていた元甲子園球児(この人が投げるボールは本当に凄かったけど)。

 自称「作詞家」、しかし、その実態は怪しげな壺を売る女。

 勿論、あまたの二流ミュージシャンたち。
(しかし、その中から、のちに大ヒット曲を飛ばす奴もいたから、世の中わからないもんだ)

 明らかに「一般社会」という枠の中ではトップランナーになれそうもない連中であった。そして、その中に重松清も紛れ込んでいたのであった。
 
以下、緊迫の次号へ続く....(って、毎回「緊迫」なのか?)

◇連載第一回「出会い編」@ 04.03.06up
 
 重松清.....。

 その名は、文学の世界では知らない者がいないほどにビッグなものとなっている。あろうことか、2000年には直木賞まで受賞しやがった。

 出世作の『ナイフ』をはじめ、『定年ゴジラ』『流星ワゴン』『ビタミンF』『エイジ』など、テレビドラマ化されたものも数多くある。自らテレビ番組に出るなどという暴挙も演じている。

 しかし、20年ほど前、彼が大学の同級生だった女性を強奪するかの如くに、駆け落ち同然で結婚した時、このような展開になると想像し得た人がどれほどいようことか。

 彼はバカだったのだ。
(今もそうあってもらいたいが...)

 どのくらいバカであったかというと、クソ汚れた下宿部屋で、全くセンスの感じられない4コマ漫画を時折描き、そこにどう見ても可愛いとは思えない女の子を登場させては、吹き出しに「重松くん頑張ってぇ」などとセリフを吐かせていたくらいである。
(彼の描く絵は実に平面的で、奥行きというものを感じさせない、もしかしたら「芸術的」なものであったことを加えておこう)

 おぉ、まず初めに私と彼との出会いを書かねばならなかったかね。

 私は1980年に早稲田大学に入学した。一年間の浪人生活を経ての合格だっただけに、随分と嬉しかったことを記憶している。浪人というのは、社会的な身分がない、というのと同義であったので、ひじょうに息苦しいものだった。

 合格してしまえば、それまで自らを縛っていたタガを全てほどいてしまうという反動がくるもので(少なくとも私には、ということかもしらんが)、封印していた「音楽」をやっと自由にやれる、ということも同時に意味していた。

 私は1981年秋から、当時高田馬場にあった“いとでんわ”という本当にちっぽけなライブハウスで演奏するようになっていた。だいたいにして、なぜそのライブハウスに出演することになったかということも説明しておかねばなるまい。

 その当時付き合っていた女の子(なぜか私の作る曲に魅入られていた)と大学近辺でデートする場所に困って(お金なかったし)、早稲田通りをプラプラと歩いていて偶然辿り着いたのがそこだった。

 夕方で、どうやらその時間帯にはライブもやっているのだと、ボロい看板が知らせていた。

 『ワンドリンク付きライブチャージ¥500』

 これは当時でも相当な破格値であり、まだ足を踏み入れたことのない領域「ライブハウス」というものにも興味があって、思わず入ってしまったのだった。

 「クソ狭い。なのに客が少なくて空席が目立つ。ミュージシャンはギターの弾き語りで思い切りヘタ。」

 三拍子揃ったすんごいライブハウスであった。ちなみに、不衛生でもあったが。

 そしてその運営も普通ではなかった.....。


以下、緊迫の次号へ続く....