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「其の参」というくらいなので、当然「其の壱」「其の弐」も存在します。 「其の壱」(1986年作)では、故郷に恋人を残し、東京で健気に頑張る青年象を、「其の弐」(2023年作)では、その恋人を東京に呼び寄せるシーンをモチーフに作りました。 そして「其の参」は、せっかく呼び寄せた恋人とギクシャクして、ついには別れを選択するという歌です。 しかも、かなり身勝手な別れの提案... 「愛があるうちに静かに別れよう」という、この曲の根底を示す歌詞に至るまでをどう描くのか、という点に腐心しました。 東京通信シリーズ完結編となります。 |
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曲中、計7回の転調をするという、小室哲哉かよ、と思うような歌。 マリンバをどう入れるか、ということにも頭を悩ませましたが、敢えて抑えた感じにしてみました。 ライブでの演奏が楽しみです。 |
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実は昨秋直木賞作家の重松清と共作した『暦ひとめぐり』以来、様々な曲が途中まで出来ては廃棄処分となる、というのを繰り返し、最早かわもとの曲を作る才能は枯渇したのかと、自分でも疑心暗鬼になるほど長い1年でした。 これからはおそらく量産体制に入るという希望的観測を持っていますが、果たしてどうなることか..... さて、出来上がった楽曲は得意の(笑)不倫モノです。 冒頭の歌詞“It doesn’t matter much to me”は、中3の時に初めて聴いて、激しいショックを受けた、ビートルズの『Strawberry Fields Forever』に登場するフレーズから拝借しました。 そんなわけで、曲のタイトルが『Strawberry Fields』となりました。 Strawberry Fieldsはジョン・レノンが幼少期を過ごした家の近所にあった戦争孤児院の名称だったそうで、それをある意味「隠れ家的な逢引の場所」と見立てて楽曲の世界観を形成しました。 あまり重たくならないようにしたつもりですが、聴かれた方はどう感じますかね…. アレンジもついにマリンバを入れて、ちょっと厳かにしてみました。 個人的にはめちゃめちゃ気に入っています(^^♪ 11月4日のライブで初披露の予定ですので、お楽しみに(^^)/ |
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背番号13のモデルだったKちゃんが髪を切ってきた初秋のある日、「♪髪を切った君は涼しさそのもの〜」という頭サビの歌詞とメロディが同時に生まれた。 以降、曲の一部分の歌詞とメロディが同時に降臨、そこから世界観を膨らませて、他の部分を構築してゆくという楽曲の作り方が少しずつ確立された気がします。 のちに直木賞作家となる重松清がこの歌を初めて聴いた時に激しい衝撃を受けたとのこと。 ….どこに? |
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イントロもエンディングもないというアレンジにしてみました。 聴く人が唐突感を抱いてくれれば、意味のあるアレンジかも.... |
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大学受験というものに対して、大きな疑念を抱いていた高3時代。 そうすることが自分の存在証明であると思いつつ、それでも受験最大の象徴である東大に入ろうと画策する別の自分もいて。 ま、そんなことしている間にちっとは勉強しろってことなんですが。 今この歌の歌詞を振り返ると、高校生らしからぬ哀愁と応分の尖りがありますね。 もしかしたら、名曲なのかもしれません…. |
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この曲を録音するために、相当久しぶりに歌ったら、なんだか泣けてきた。 自分の歌に自分が揺さぶられるとは.... |
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友だちの友だちの彼女が家庭の事情でロサンジェルスに引っ越すことになる、という話に着想を得ました。 恋愛経験とかが激しく欠乏していたので、何か面白そうな話を聞くと、それをモチーフにして歌を作っていました。 当時まだ16歳ながら、作った歌の楽譜をサイダー瓶の中に入れて、届く当てのない海に流すという発想は我ながらロマンティスト(というか、妄想野郎)だったと思う次第です。 |
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それにしても、 「あなたのためにと踏みしめながら 昇り始めたらせん階段 今から降りてゆくには少し遠すぎるようです」 とか 「あなたを乗せた船の吐き出す煙の長さは愛した髪の長さ」 とか、比喩するにしても、今なら絶対別の表現にするよなぁ.... |
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平塚の高校に通っていた関係で、1学期の期末テスト期間中、帰り道に七夕の様々なイベントに遭遇するのが常だった。 それにはさして興味もなかったが、ふと傷痍軍人と思しき、片足を失くした男性がアコーディオンを弾く姿とその哀愁に満ちた響きに異様に惹きつけられたのがきっかけで出来た歌詞だった。 歌っているのは作曲を担当した岩佐敏哉です。 彼のすごく芯のある声がいつも羨ましかった。 |
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今思い出したが、この曲のタイトルは当時めちゃめちゃ流行っていた「風」(伊勢正三と大久保一久)のアルバムタイトルに“Windless Blue”というのがあって、そこからこっそり拝借したんだった...(^^ゞ | |
かわもと高1の1976年12月26日、設立したばかりの「茅ヶ崎自己陶酔の会」(この名称もどうかと思うけど...)主催の初コンサートを海岸近くの青少年会館(既に廃館)で開催するも、来て欲しかった「君」は来場せず。 帰宅してこの歌を作ったという記憶が….。 甘い痛みが創作意欲に火をつける慣わしはこの頃からだったと気付く今日この頃です。 |
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この写真もAIで生成したものにいろいろと加工してみました。 何でもできるような気にさせるね.... |
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高1の夏、作りかけていた詞を目聡く見つけたのが当時クラスメイトだった長谷川勝。 突然、「この詞、ちょうだい」と言ってさらっていったのだった。 今思うに“大好きな子が病気で死ぬ”というシチュエーションが好きだったのかもしれません。 |
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のべつ幕無しでずっとハモっている曲は、これ以外には存在しない、という意味で貴重かも。 | |
高校時代、「在日日本人」という奇天烈な名前のデュオを組み、かわもとの相棒であった岩佐敏哉の名作。 この音源で歌っているのはかわもとです。中学の卒業式をモチーフに、実に女々しくて素晴らしいと思っていた楽曲で、コーラスや間奏のアレンジをしつつ、泣きそうになっていました。 写真の女の子はAIを使って描いてみました。 私はさしたるAI描画の知識やスキルは持っていないが、このレベルの絵を1分足らずで生成できるということになると、絵描きが本業という人のうちかなりの割合で職を失くすのではないかと、ちょっと 恐ろしい気がしました。 |
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私が通っていた神奈川県立平塚江南高校は1921年(大正10年)に平塚高等女学校として創立されました。 当時平塚近辺ではどんな嫁入り道具よりも、この学校を出ることの方が女性にとって価値があったという話も漏れ聞きます。 (真偽は不明) その後、第二次世界大戦を経て、他の多くの高等女学校同様、男女共学となって今に至りますが、私が通っていたのは1976年4月〜1979年3月。 極めて平和な時代でした...。 自分と同世代の女性「私」の目線で、祖母・母・私・娘の乙女四代に亘って同じ学校に通うという状況設定でこの楽曲を作ってみました。 四代に亘って同じ高校に通ったという乙女たちが実在するかどうかは、今のところ不明です。 でも、いてもおかしくないですよね(^^♪ どなたかご存じであれば教えてください。 というわけで、この曲を我が母校の創立百周年に捧げます。 この音源の歌はやはり江南高校出身のつちだのりこさんが担ってくれました。 かわもとはコーラスで参加。 イメージ的にはトワエモアとかダカーポ、チェリッシユなどを意識して、なるべく前に出ないようにしました。 実はそれがあまり得意ではありませんが....ご容赦ください。 |
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「母の母はね この学び舎に初めて通う乙女だったの」 という歌い出しの歌詞を思いついた時、オレはこの歌詞を残すために生まれたんだと思ったものです。 (実はよくあることなのですが...) |
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1981年からたったの2年間、早稲田通り沿いにひっそり存在していた、ちっぽけなライブハウス「いとでんわ」で偶然(必然だったのかも....)出会ったかわもとひろのぶと重松清。 あれから40年以上の歳月が経過。 還暦を迎えた重松が生涯で初めて「共作しよう」と申し出て、実現したこの作品。 曲が出来上がるまでの道のりは険しく、幾度も挫折しかけました。 2023年5月、重松がくれた詞は溢れんばかりのかわもと愛に満ち、かわもとソングからの引用が多かったこともあり、ちょっと、というか、かなり長かったっす(^^ゞ そこで意を決したかわもとは、重松のオリジナルの詞のうち8割を変更。 『暦ひとめぐり』というタイトルと「歌っておくれよ めがねのピアノ弾き〜」というサビをかろうじて残し、9月半ばどうにかかわもとソングらしく出来上がりました。 ちなみに、曲中に登場する「君」が重松であり、「僕」がかわもとという設定で、重松から届いた手紙に返事を書くという筋書きではあります。 ただ、もう作品として歌うからには、そうした経緯抜きで、聴いてくれる人が直感的によい曲だと思ってくれれば..... 重松清とは最初にして最後の共作になる可能性も高いとは思いますが、また興が乗ったら、重松清とではなくても共作もやりたいなぁという心境になっています。 |
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2018年、2023年とライブにゲスト出演してくれた重松清。お互い生きていれば2028年にまた共演しよう(^^)/ |
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高校時代の友人が結婚する際に作った曲。 以降、結婚式で1曲歌ってくれと頼まれると、それが秋から冬にかけてであれば、躊躇なくこの歌を歌っていました。 イントロがイルカの「なごり雪」みたいだね、と言われることがしばしばありますが、それは「なごり雪」に対するオマージュであり、盗作と呼んではいけません(^^ゞ |
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「願い事はいつも一つ
君が君であり続けること 君のために出来ることは僕が僕であり続けること」 結婚前夜にこんなことを言ってみたいと思っていたんだけど....(笑) |
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1980年代後半を「かわもと孤独の時代」と自称していますが、その時期に作った作品群の中でも、飛び抜けて自分へのメッセージ性が強い楽曲です。 当時は頼りにしていたライブハウスが閉鎖し、大学で知り合った友人たちは皆就職して、自分と強く繋がっているものがどんどんなくなってしまうという感覚にも陥っていました。 この曲の歌詞は、そうした閉塞感に満ちた自らへの叱咤や鼓舞だったのでしょう。 「何かを始めなきゃ何も始まらない そんなTokyo Cityに今日も陽が落ちる」 時代が変わっても、東京じゃなくても、きっと同じですね。 |
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「其の壱」というタイトルが初めからついていたところを見ると、続編も作ろうとしていたのかもしれません。 しかし、その続編『東京通信其の弐』が2023年に出来るまで、37年もの時間が経過しました。 齢はとりましたが、今も常に混迷しているというのは変わりません。 それでも生きてゆくわけですね..... |
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今年の5月から現在にかけて、自称「かわもと孤独の時代」1980年代後半に作った楽曲を集中的に録音していたせいもありますが、「4畳半ひと間・風呂なし・トイレ共同・音出し不可」という難問を抱えた部屋で歌の構想を練っていた日々が思い出されてなりませんでした。
そのせいもあって、当時の貧しい暮らしのビジュアルを再構築した楽曲を作ってみました。 最大の問題は、当時電話を部屋に引くのにはかなりの額の権利金というものが必要で、電話を掛けるのは専ら公衆電話だったという点です。 今やどれほど貧乏でも、たいていスマホを所有しているので、このご時世に「長距離電話」とか「故郷に手紙を書く」という言葉・行為そのものや心理がどれほど受け入れてもらえるか、不安とも闘いながら作った曲でした。 実はこの作業を思わず後押ししてくれたのは、広末涼子でした。 不倫の良し悪しはともかく、好きになった相手に対して、ある意味愚直に、まっすぐに“直筆の手紙”を送るという行為に、ちょっとした安堵を覚えたわけです。 |
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また、この曲を作る上で、1986年に作成した『東京通信其の壱』という下敷きがあり、それは「東京に出てくるからには腹を括れ」というメッセージが強く込められたものでした。 『其の弐』の方は、「と言いつつも、弱気にもなるし、泣き言も言いたくなるよね」という、東京都民であった頃の私の不安定な気持ちを歌にしたものです。 敢えて声のダイナミックレンジをあまりきかせない、フォークソング風の歌唱で歌うということと、二人称(君・あなた・お前など)を使わずにラブソングが成立するかどうかを実験的にやってみました。 |
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ミュージシャンの傍ら、長らく予備校講師としても働く中、時として数学用語が妙に哲学的かつ音楽的だと思うことがあります。 (教えているのは数学ではありませんので、専門的な質問等は一切受け付けません!) その中でも特に「互いに素」という用語は高校生の頃から、その響きに惹かれていました。 いつかこの言葉を主役にして歌を作ろうと思ってから45年。 ようやく楽曲として成就したのが、この『愛の定理』です。 もののついでに、「漸近線」「ねじれの位置」といった、本来は歌詞に登場しそうもない言葉も放り込んでみました。 もうね、いつものことなんだけど、作ってしまったら、作る前に持っていた執着とかは喪失していて、これから先の短い人生で数学を歌にすることはないかと予想します。 ちなみに、音楽的には相当回数転調しているのですが、それが不自然に聴こえてないなら嬉しいです(^^♪ |
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明日(2023.3.5)寒川神社参集殿で行われるロータリークラブのイベント「国際ロータリー第2780地区第4グループ・インターシティミーティング」(通称IM)で初披露する予定の『風に揺れても』。
イベントテーマは「ウクライナ問題」で、在日ウクライナ大使や茅ヶ崎に避難されているウクライナの方々を招いて開催されます。 主催する茅ヶ崎中央ロータリークラブさんから出演のオファーを頂いてからおよそ半年。 |
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実はそこから実際に楽曲が出来上がるまでには悶絶の日々がありました。
歌詞を誰の視点から作るのか、とか、全体的なストーリーをどうするのか、とか... 曲の途中にウクライナでよく歌われるという『赤いカルーナ』という曲の変奏を入れたり、別メロを加えたり、タイトルも二転三転どころか、今落ち着いて楽曲が出来るプロセスを見直してみると、7回も変更したことが窺われます。 「ウクライナ」⇒「故郷」⇒「新しい隣人」⇒「5000マイルの友情」⇒「イワンの決意」⇒「風に揺れて」⇒「風に揺れても」 「風に揺れて」と「風に揺れても」で何が違うのかと問われると、返答に詰まるのですが(笑)、「も」にウクライナからの避難民の方たちの強い決意を込めたつもりです。 まずは明日無事に歌えることを願っています。 |
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美川憲一の「さそり座の女」がなければ、絶対に出来ていなかった曲だと思います(笑) 自分の人生のメインストリートとも言える「較べられて敗れ去る」の真骨頂がこの曲で、1月のひどく寒い黄昏時に、茅ヶ崎海岸で本当に船にもたれながら作りました。 当時はまだパシフィックホテルがあって、その壁を夕陽が染めるのを見て、めそめそしていたのを憶えています。 たぶん、感傷的な気持ちになるのが嫌いじゃなかったんですね... それにしても、作って以来40年間も歌い続けることになるとは予想できませんでしたが(^^♪ |
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この曲を作った頃からはちょっと凝ったコード進行とか、転調などを含めて、曲全体の世界観やアレンジといったものを意識し始めたという記憶があります。 出だしの「E→BonD#→C#m→D#→G#m→G#→C#m」という運びを思いついた時の痺れは忘れられません。 また、間奏で短調(ホ短調)に転調して、ベース音を半音ずつ下げていったら、プログレッシブロックのようになって、バンドでやりたいなぁと思いつつ、でも当時の音楽環境から、この楽曲を当時はピアノの弾き語りで演奏せざるを得ず、ジレンマも感じていたことが思い出されます。 あの頃、小田和正が神のような存在だった影響で、歌詞が小田和正の世界観の借り物のようです。 そういうこともあって、この曲を今録音するということをかなり躊躇していましたが、この機を逃すと、もう一生録音しないだろうという思い、相当な覚悟でやってみました。 「うすれゆく痛みを夏の風に呼び戻され あなたの心揺らせば 僕はせつなくなる」 というフレーズは我ながら秀逸だと思ってます(笑) |
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拙曲『Marigold』の続編。 この歌を作る頃には、恋も9割方終わっていたのだけど、失いそうなものは追いかけたくなるもので... 今思うに、この曲を超える純愛ソングはないかも。 当時の自分の気持ちに泣いてしまいそう... |
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その時恋していたのは時々詩人のような一人語りをする少女。 しばしば二人で海の見える場所へ赴き、他の人から見れば、ほとんど意味のない時間を過ごす慣わしだった。 秋の午後、横浜・山下公園から見える港の風景は、だんだんと影を長くするのであるが、それがたまらなく感傷を誘う。 あの、瞬間(或いは永遠)と思えるような時間から、たくさんの曲が生まれた。 もうあんな経験は出来ないのかなぁ.... ちなみに曲のタイトルは当時お気に入りだった、サザンオールスターズの『松田の子守唄』にあやかった。 と言っても、その『松田の子守唄』もそもそもは『竹田の子守唄』が下敷きだけど... |
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拙曲『大いなる坂道』での葛藤を経た"僕等"がついに結ばれるという歌。 「年老いても君と暮らしていたい....だから....」の行間に込められた願い。 やがて、ふたりは長い歳月を幸せに暮らすのだが、ある時避けられない別れがやって来る。 それが『黄昏』であり、『No One Else』、場合により『ひまわり通信』なんだと思って聴いてくれたら嬉しいです。 |
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あいみょんが同名の大ヒット作を世に送り出す2018年から遡ること37年。 オイラの方が先に作ったんだよ.... もちろん恋の相手の名前はMariちゃん。 してはならない恋だとわかっていながら堕ちてゆく弱さを自覚しつつね。 あいみょんの曲はYouTubeでの再生回数が2億数千万回。 せめてその1万分の1くらい再生されねえかなぁ.... |
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夏が終わる頃はいつも恋も終わるような不安を抱いていた。 そして、それは愛し合うふたりの中でも伝播する。 「いつもそばにいた だから気づかずに 過ごしてきたけれど なぜこの僕を 君は選んだの それが知りたい」 夏服で、少し息を弾ませながら、坂道を上る女性。 それは永遠の憧れであり、手が届かないものの象徴のようであり.... それにしても、高校生の頃、ひどく石川啄木が好きだったなぁ。 その影響で「26歳までに死ぬんだ」と思っていたのに、還暦を過ぎて、まだ生きている... もう、とことん生きてみるか... |
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この曲作ってから40年か... 1982年当時、中森明菜はデビューしたばかり。 かわいい、という言葉だけでは言い表せない、少し翳を内包しているようなビジュアルにひどく惹きつけられたのを憶えています。 そして、私にはよくあることですが、疑似恋愛と思しき気持ちとなり、「この人にこの歌を歌ってもらいたい」症候群に至りました。 結果、出来上がったのがこの曲で、当時はライブのMCでも「中森明菜のために作りました」と公言していました(^^ゞ でもね、今こそ中森明菜に歌ってもらいたいなぁと切に思う次第です。 それが叶うまでの間、致し方なくかわもとが代わりに歌っておきますね(泣) |
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明るい失恋ソング。 それほど貞淑とは言えない女性に恋して、ほぼ予定調和の如くフラれてしまう僕。 そして、そうされることがそれほど嫌ではないM気質...(笑) ちなみに、シェイクスピアの名作「ハムレット」に登場するオフィーリアとは全くの無関係。 拙作「ローゼンダール」同様、その名前がたまたまメロディに乗りやすかったというだけの理由。 そういう曲もあっていいですよね? (って、誰に聞いているんだか...) |
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永き時間をともに生きた連れ合いを喪う男。 残像だらけの部屋にはせつなさが駆け巡る。 でも、その部屋を出てゆくことができない... かつて作った『ひまわり通信』が、老いたる男の心情であったのに対して、もう少し若い、それゆえに喪失感にあふれて... 間奏でのサックスは初めてリアルタイム録音で吹いてみた。 (と言っても、ウィンドシンセだけど) |
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今年(2022年)1月、母が亡くなりました。 家で暮らしたいという母の希望もあり、最後のひと月少々の間、住み慣れた自宅で過ごすことが出来ました。 ひどい痛みや吐き気もなく、静かに逝ってくれたのは、残された者にとって幸いではありましたが、長年寄り添ってきた父はどういう気持ちでいたのかなぁ...。 父は齢91とはいえ、ロータリークラブやボランティアセンター等を通じて社会活動もし、私が経営するちっぽけな会社の経理も手伝ってくれています。 一方、母も最期まで意識があり、頭もしっかり働いていたので、父は母と会話をしようと思えば可能だったわけです。 しかし、少なくとも私が居る状況では、心の琴線に触れるような会話がされているのは聞いたことはありませんでした。 でも、もしかしたら、私のいないところでは密かな語らいの時間があったのかもしれません。 そんな思いで作った曲でした。 |
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「出会うのが早すぎて 言いそびれたままの 言葉届かない 胸の隅に残されて」 そんな思いを持つ人も多いことでしょう。 近づこうとすれば遠ざかり、かと思えば、予期せず恋しさやせつなさが湧き上がることも。 ほんと、予定調和はありませんね...。 そして、この歌を世界中のかわいいおんなに捧げます。 |
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口数の少ないその留学生は、それでも自分の国がどれほど素晴らしいか、そして、なぜ世界は戦うことをやめないのか、ということを語る時だけはひどく雄弁でした。 相変わらず、世界のどこかで紛争は起きているよ。 君はどうしているのかな... |
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通っていた高校は1921年(大正10年)に高等女学校として創立されました。 当時はどんな嫁入り道具よりも、この学校を出ることの方が女性にとっては価値があったという話も漏れ聞きます。 その後、第二次世界大戦を経て、他の多くの高等女学校同様、男女共学となって今に至りますが、私が通っていたのは1976年4月〜1979年3月。 極めて平和な時代でした...。 自分と同世代の女性「私」の目線で、祖母・母・私・娘の乙女四代に亘って同じ学校に通うという状況設定でこの楽曲を作ってみました。 四代に亘って同じ高校に通ったという乙女たちが実在するかどうかは、今のところ不明です。 でも、いてもおかしくないですよね(^^♪ というわけで、この曲を我が母校の創立百周年に捧げます。 |
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兄妹の関係でいようと約束してたのにね... もともと僕側には下心があったんだよ。 君もそれに全く気づいていなかったわけではないんだろうけど、きっと少し許してくれたんだよね。 静かな海辺で過ごした甘美な時間は、君の中に何を残したのかな... 今もあの歌、覚えているかい? |
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コロナ禍となって、微妙に変わった恋愛事情。 リアルな体温の存在なしでも愛が続くか、というのは、かつての「遠距離恋愛」は成就されるか、というのに近い感覚なのかもしれません。 少し違いがあるとすれば、お互いが「この人と付き合っている」という約束事がなくても、SNSを通じて誰でも見ることの出来る静止画・動画は無数にある、ということでしょうか。 世界各地でのロックダウンや、日本に於ける緊急事態宣言(特に初回の)といった状況下では、それがより顕著になったなぁと。 コロナは一時的に経済的な痛みを与えたかもしれませんが、本来不要であったものを除去し、大切だったことなのに忘れられがちだったものを炙り出した、という意味では、現代に於いて不可欠な要素だったのかもしれないですね。 この曲をコロナ禍で思いを成就させた人、思いが届かなかった人、思う人が現れなかった人、すべてに捧げます。 |
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17歳の少年かわもとは恋していた。 1年後輩の女子バスケ部の女の子だった。 その子に捧げる歌で、タイトルの『背番号13』は、その子のつけていた背番号。 1977年に作り、その年に一度だけライブで演奏されたのち、ずっと封印されていたんだよ。 ところが、2021年夏、東京オリンピックの女子バスケット準決勝(対フランス戦)を見て、44年ぶりのデジャヴ。 ポイントカードの町田瑠唯選手にいっぺんで恋に堕ちた。 そして、彼女の背番号も「13」......。 これは神の思し召し(都合のいい時だけ、神は存在する)だと感じ、キーをAからCに上げたほか、ほぼ全てのパーツを一新して、まるで新曲のように生まれ変わった。 この歌を町田瑠唯選手に捧げます。 |
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大学受験にあえなく失敗。 浪人が決まった春まだ浅い岐阜県揖斐川のほとり。 当時、石川啄木や太宰治を読み耽っていたことと無関係ではあるまいが、虚無感を抱いて眺めていた、小雨交じりの川の流れ。 その視線の先には地元の高校生と思われる純情そうな男女。 やがて、この二人にどんな別れが待ち受けているか、ひどく想像をたくましくしたものだった。 考えてみれば、彼らと当時の私はそう年齢も違わなかったはずだが、何かまるで別の世界の情景に思えた記憶が... かわもとひろのぶ、10代に於ける最高楽曲かも。 |
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ポール・ハリス。 その名をご存じの人のほとんどはロータリークラブと何らか関わりのある方かと予想します。 そんなロータリー関係者に是非聴いていただきたいのが、この歌です。 彼が1905年にシカゴで最初のロータリークラブを結成してから既に百有余年。 数多存在するロータリーソングになぜ創始者ポール・ハリスを称え、彼の足跡を掘り下げた楽曲が存在しないのか、ずっと不思議に思っていました。 (あくまで私の知る限りでは、という意味ですが) というわけで、ないのであれば作ればいいじゃん、という発想から作らせてもらいました。 ポールは淋しがり屋で、歌うことが大好きだった...という私の勝手なイメージから世界観を構築してあります。 2番の「志をともにして 見上げたシカゴの空は 誇らしげだっんだよ 踏み出せそうだったんだよ」という歌詞こそが、青年ポールの心象風景だったのではないでしょうか。 まさに、志をともにする皆さん、感想など頂けましたら幸いです。 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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のちに誰も予想していなかった直木賞作家となる重松清氏。 その若かりし頃、彼は私のライブをしばしば聴きに来る客でした。 そんな彼が我が早稲田の四畳半・風呂なし・トイレ共同のボロ屋敷に、ある女性を伴って唐突にやって来て、この人と結婚することになったから、結婚式用の歌を作ってくれと私に依頼しました。 かなり強引に、しかもノーギャラで。 それで作ることになった歌でした。 その顛末の詳細については「かわもとひろのぶ.com」に特別掲載されている『出て来い!重松清 復刻版』(こちら)をご参照下さい。 2018年秋、ワンマンライブの第10回を記念して、重松清氏をゲストに招いた際、その結婚式以来33年ぶりに彼の前で歌ったことを報告しておきます。 |
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2018年11月11日のかわもとひろのぶワンマンライブ#10にゲスト出演してくれた際の重松清氏 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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2014年は、重い腰を上げて、ついに23年振りのライブを敢行した年でした。 1990年、AXIA MUSIC AUDITION決勝大会で槇原敬之にグランプリを持って行かれたのを機に、商業音楽から撤退、塾講師、さらには経営者として無我夢中で歩んだその後の20数年に悔いはありませんし、音楽以外のことを突き詰めてやった経験は、今音楽をやる上でも役に立っています。 しかし、楽曲を作り演奏するということに対して浦島太郎的になっていたことは否めず、復帰第1回目のライブではセットリストに新曲が全くないという状況でした。 そもそも、自分が音楽に復帰して喜ぶ人がいるのだうかという疑心暗鬼にもなりましたし、最早楽曲を作る能力や、さらに根源的な「曲を作りたいという衝動」は湧いてくるのか、という中での見切り発車でもありました。 この曲が曲として完成に至ったのは、20世紀に既に着想していた「膨らみだした乳房は恋をした証だわ 鏡の前で淫らな言葉も言える」というフレーズが頭の片隅に残っていたからだと確信しています。 かわもと楽曲の常ですが、核になるフレーズ(歌詞+メロディ)から世界観を広げていくという手法でようやく完成した時の達成感や安堵というのは、これまでの作品の中でMAXだったかもしれません。 そして、この曲の歌詞には「男と女」の恋愛に加え、女の子の同性に対する微妙な感情も背景に仕込んでみるという実験もしてみました。 (聴いている人に伝わっているかどうかはさておき…) まぁ、復帰2回目以降のライブを続けてゆく免罪符としても、この曲が出来上がることが必須でした。そして、その後『セブンスターの箱が空になるまで』『キッチン馬鈴薯』といった楽曲を作ってゆくうちに、だいぶ感覚も戻ってきたように思います。 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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困った時に、他の人が作った話や歌から世界観を拝借する手はしばしば使わせてもらってます。 (けして開き直っているわけではありませんよ(^^ゞ) 『賢者の贈りもの』とかもまさにO・ヘンリー作品にインスパイアされたものですしね。 この曲も切り口は野口雨情の名作から拝借し、情景も横浜の山下公園という設定になっています。 ついでに言えば、途中に出てくる「半袖には少し寒い埠頭を渡る風」というフレーズは、もちろんユーミンへのオマージュです。 (盗作ではないんだよ、と言いたいわけです) |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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♪恋するまでは生まれた意味を誰も皆わからない ネットで偶然見つけた、バスケットボールをしている少女の可憐な写真。 作成当時、心身ともに疲れていて、その写真に激しく癒されたのが、作るきっかけではありました。 この曲を作った意味があるとすれば、それは「….ない」で韻を踏み続けたことかと。 実験的な曲であるため、作ってから3年半、ライブでは一度も演奏されていません。 飛沫を飛ばしながら歌えたら、ちょっと気持ちいい曲だとは思いますが… |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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まさしくタイトル通りの内容です。 好きだった子にフラれ、生きているのもツラいと思えた時期、「誰でもいいから、誰かの心に自分という存在の痕跡を残したい」という思いに至りました。 ♪誰かの心に影を落としていたい... 結構病んでいたと思います。 今なら書けない歌詞かもしれませんね。 かつてはギターの弾き語りで歌ったものでしたが、背景音をちょっとシックなピアノにしたら、森田童子の『僕たちの失敗』みたいだ(^0^) |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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当時高校2年で、メロディはともかく、詞を作るための経験値が著しく不足していました。 なので、よく友人の失恋話を聞いては、それを膨らませて(即ち妄想、ですが)歌に出来ないかと模索する日々でした。 この歌もその1つで、高2秋に初めての彼女が出来た友人Yが鎌倉でデートして、速攻でフラれるという話から生まれたものでした。 ♪僕の心の腕時計は回り続けるけれど あの時の風はとても優しかった それにしても、このタイトルはいかがなものでしょうか(笑) 心の腕時計って…(^^ゞ |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 |
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音楽活動のほぼ全てを中断していた1990年代〜2000年代の作品は当然ですが、ものすごく少ないわけです。 その中の稀少な1つがこの『希望の船出』(2005年作)です。 この年は人生の転換点とも言える出来事がいくつかあり、自分自身にとっても、そして最愛の人にとっても「希望」が必要でした。 直木賞作家でもある朋友・重松清の結婚式用に作った『勇気ある船出』(1995年作)や、職場の同僚の、やはり結婚式のために作った『僕たちの船』(2018年作)、さらに言えば1981年に作った『港で歌う子守歌』、1986年作『夜明け前』といった楽曲は、思い起こしてみるに、人生を船旅に喩えようとするものでした。 (『僕たちの船』以外は2020年11月末時点でYouTubeにはアップされていませんが…) 私は船酔いするので、実はあまり船旅は好きではありませんが、広大な海原にポツリと浮かぶ小舟の非力さとそこから生まれる健気さには強く心惹かれるものがありますね。 ♪希望という名の荷物だけを抱え 船に乗ろう 行く先はまだ決めなくていい という一節は“着地点未定”という私の真骨頂とも言えましょう(笑) |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 壊れたガレージで僕が歌った あの歌 今も覚えてるかい? という歌いだしに、ほぼすべての気持ちは詰まっているわけです。 42年前の話です。 高3の秋、土曜(当時学校では土曜日にも授業やその他諸々あったんだよね)の放課後、好意を抱いていた女の子に自作の歌を無理やり聞かせたことがありました。 全曲ギターの弾き語りで。 日が落ちるのも早く、徐々にオレンジがかる空はひどく感傷を誘ったものでした。 彼女はそれほど嫌がるわけでもなく、聴いてくれて... (よほど暇だったんだろうか) 人の心に突き刺さりたいという気持ちで歌ったのは、おそらく初めてだったかと思います。 その原風景が忘れられません。 『モデラート』はそれをほぼ十年後に歌にしたのでした。 |
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いろいろあって、その後20年近く音楽をお休みしていましたが、復帰して早6年半。 創作意欲はもしかすると、今が最高潮かもしれません。 ちなみに、42年前に私の歌を聴いてくれた少女は、なぜか今のツレです。 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】2020年9月20日・記 この曲はAメロ・Bメロ・サビが別々に出来て、のちに合体させたという経緯がありました。 気が付いてみると、それぞれの最適のキーが異なっているという致命的な欠陥が発覚しましたが、それを逆手に取って、転調の妙でゴリゴリとアレンジもしました(^^ゞ もとの着想はビートルズの『FOOL ON THE HILL』。 ♪愚か者オロオロ丘の上 老いらくの思い 抑えられず〜 という歌いだしの歌詞はそのオマージュであり、世界観の下敷きは「老いたる者も恋をする」。 |
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2018年1月に前橋で85歳の老人が、交際中の女性が待つ老人福祉センターへと向かう途中、女子高生2人を車で撥ね、1人を死亡させるという痛ましい事故があったが、あれも恋心のなせる業かと思ったものでした。 そして、石川啄木に憧れて「絶対に26歳までに死ぬ」と心に決めていた私が、この9月17日、ついに還暦を迎えることとなってしまいました。 最早動物としての機能は最低レベルであり、この歌の世界観に自分から突き進んでいるようにも思えます(笑) ちなみに、左の写真がYouTubeの背景になっている写真ですが、私の実の両親のうしろ姿です。 親父は既に卒寿(90歳)。 お袋さんに恋しているとは思えませんが、ある意味大したものだと感心はしています。 昨年『おかあさん』という歌を作り、ちょっとした親孝行をしたつもりではありましたが、なんか親父の歌も作っておこうかな、という心境になりつつあります... |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 この曲は最初、友人であるトライアスリート・高橋清悟(2015年ハワイアイアンマンレース年齢層別世界2位)のテーマソングとして作成。 (そのあたりのエピソードについてはこちらをご参照下さい) ただ、もはやこの楽曲は彼のためにあるというより、準備を整えて新しい出発をしようとするあらゆる人への応援ソングとしての意味の方が大きくなったのかと思います。 |
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左)若き日のかわもと少年全力疾走の図(うしろ) 右)2018年11月藤沢ライブ館での「スタートライン」演奏の映像に合わせて作られた動画 |
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ポール・ハリスという名前は知る人ぞ知る、というところでしょうね。
ロータリークラブ(詳しくはこちらを)という組織を立ち上げた人です。 アメリカ社会が荒んでいた1905年のことです。 今や世界に120万人の会員が在籍する巨大組織ではありますが、はじめはシカゴの片隅にたったの4人で集まって、つつましやかに昼食をともにして、友好を温めるというものだったそうです。 私は世界に3万3千も存在するクラブのうちの一つである茅ヶ崎ロータリークラブに1997年から所属しています。 以来20数年に亘り、けして安くはない会費を払い続け、毎週行われる例会に足を運び、本当に微力ではありますが、地域社会や貧困地域への奉仕もしてきたのは、その始まり方への敬愛があったからと言えるでしょう。 ニューイングランドの田舎町からシカゴという大都市に出てきて、おそらく傷つき、孤独にもなったポールが一大決心の末(というか、淋しいから自然の成り行きで、という方が正しいのかも)友を集め、志を持って「何かをやろう」として、それを実現させたことに対して、私は憧憬の念を持っています。 異論のある方もいらっしゃるでしょうが、ロータリークラブの根幹には奉仕団体という以前に、ポール・ハリスが発した「誰か僕の友だちになって」というせつない願いがあるのだと考えています。 そのことも織り込んで、いつかポール・ハリスのことを歌にしたいと思っていましたが、出来上がったのは2016年のことでした。 |
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左)黎明期のロータリークラブ 右)2016年に行われた茅ヶ崎ロータリークラブ創立55周年式典での「ポール・ハリスへの手紙」熱唱 | |
この歌を日頃のライブのお客さんや自クラブの会員以外のロータリアンに広く聴いてもらえる機会を得ることが出来ました。
そのイベントは2月15日(土)茅ヶ崎市役所分庁舎「コミュニティホール」にて開催されるIntercity Meeting(通称IM)というものです。 簡単に言うと、茅ヶ崎・寒川・綾瀬のロータリークラブが年に一度、一堂に会してテーマに則った講演があったり、議論があったりするというもので、今回は「つながり」というテーマとなっています。 ロータリークラブに所属するシンガーソングライターで、ロータリー精神を歌にしたという「つながり」でお呼ばれしたのかと思います。 せっかくの機会ですから、ポール・ハリスの気持ちを代弁して歌おうと思っています。 当日イベントに参加される方は、動画で予習して、是非一緒に口ずさんで下さい(^^)/ |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 舞台は地元茅ヶ崎の海岸と早稲田大学キャンパス。 二十歳の頃に付き合っていた子との日常的風景ではありますが、好きな人の二十歳の誕生日にあげられる贈り物がないことに気づいて狼狽する自分の無力さを歌ったものでもあります。 それにしても、若かった頃の歌にはしばしば「髪」という言葉が散見されます。 しかも、その大半は「柔らかい」という形容詞をつけて。 (直接そうは言ってなくても、それと推測されるケースも多い) この歌もその例外ではなく、「君の柔らかい髪を小指で遊び」という歌詞が登場(笑) だからどうした、というわけではありませんが... ワンマンライブでは初演。 ピアノ弾き語りなので、この音源とはちょっと感じは違いますが、弾き語りも悪くないかと...(あくまで個人の感想です) |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 歌の中の風景は1970年代後半、自分が高校生だった頃の学校の屋上。 当時、高校生がタバコを吸うのはよくあることで(もちろん法律では禁じられていましたが)、多くの大人たちも自分も喫煙しているという負い目もあって、「規則だからダメだ」という論理以外はカードを持っていないのが現状でした。 そして、孤独が好きな少年たちはタバコというアイテムを使用することによって、他者との差異を表現したり、時には仲間意識を演出したりしたものでした。 正直に告白すれば、私がタバコを吸い始めたのは高3の秋。 以来30年の長きに亘って喫煙していましたが、47歳の時にレーシック手術を受ける際、医師から「3日間の禁酒・禁煙」を申し渡され、それを守っているうちに、タバコを吸いたいという気持ちがなくなり、何だか自動的にタバコをやめることが出来ました。 少なくとも私にとってタバコというのは、所詮その程度のものではありましたが、今でもけして嫌いではなく、郷愁すら感じます。 禁煙して以来、おそらくタバコを吸う夢を数百回は見ているので、もしかしたら潜在的には吸いたいのかもしれませんね... |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 この曲は私が16歳(高2)の時に、当時デュオを組んでいた岩佐敏哉と二人で作ったものです。 自分が80歳になったことを想定した歌詞になっていて、歌い出しの「あぁこれが60年前に流行ったビートルズの歌だよと 軋んだ椅子に横たわりながら 君に言えたならどんなに幸せだったろうか」は随分老成している印象です。 彼との合作は何曲かありますが、いずれも私が先に詞を書いて、それに彼が曲をつけるという手順でした。 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 その頃好きだった女の子(何人いるんだよ)に二股かけられた挙句、捨てられるという痛ましい経験を何とか“晴らしたい”との思いから作った曲。 (そんなのばっかりですなぁ...) その彼女がてんびん座というシャレにならない星座ということもあり、ここは美川憲一の『さそり座の女』へのオマージュではないけど、『てんびん座の女』ってタイトルで歌を作るかということになった経緯があります。 ま、何しろ絵としてはたいへんわかりやすく、だから、シンプルで訴求力があり、作ってから相当な年月が経っているにも関わらず、経年劣化していない作品なのかもしれません。 ライブではオープニングでお聴かせ致しますぞ。 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 その頃好きだった女の子にあえなくフラれ、彼女の21歳の誕生日に、ある意味“腹いせ”で作った曲。 今歌詞を読み直しても、その女々しさは全開していると言えましょう(笑) こんな曲でも、かの直木賞作家・重松清氏は「歴代かわもとソングでベスト5に入る作品」だと言っています。 (彼の音楽嗜好が時々わからなくなりますが...) 11/17のライブでは、この曲をおそらく35年以上の時を経て、記憶がないほど久々にギターの弾き語りで歌う予定です。 ちゃんと演奏できるといいなぁ。 でも、思い出してみるに、1年前は右上腕骨折直後でライブではギターが弾けない状態でしたから、ちょっと嬉しいです。 お世辞にもうまいとは言い難いギターですが、頑張る所存です。 |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 さしたる親孝行もしないまま、59歳という年齢になってしまいました。 幸いなことに我が両親はともに健在で、近隣で行われるライブにも足を運んでくれていますが、彼らがいつまで私の歌を聴いてくれるかはわかりません。 この歌は、とりたてて自分の母親にフォーカスしたものではありませんが、人はいつか年老いてゆくという摂理には逆らえません。 そのことを自分の母親の姿に重ねつつ、どうせなら、彼女が生きているうちに誇れるような“日本一の母親ソング”にしたいと思って作りました。 頭サビの「もう誰も僕を叱ってくれないんだ」と、各コーラス最終行に相当する「今、僕があなたを抱く 小さくなったあなたを抱く」というフレーズに、子が母を思う気持ちを託してみました。 また、敢えて洗練されていない言葉も散りばめてみました。 皆さんにどう伝わるのかは、もちろんわかりませんが、聴く人の胸に響くような歌を作り続けたいです。 ちなみに、私は自分の母親のことを一度も「おかあさん」とは呼んだことがありません.... |
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【楽曲誕生のエピソードと思い入れ】 この春、姉のように慕っている人の娘さんが急逝されました。 子どもを喪った人たちの悲しみというのがいかばかりか、ということは想像するしかありませんが、なんとか少しでも寄り添うことは出来まいか、という思いから作ってみた歌です。 亡くなったのが桜の季節だったので、桜の花と彼女の成長を重ねつつ、直接的な言葉を避けつつ、楽曲としてなるべく温かいものにしつつ、という気持ちで取り組みました。 “抑制の美学”とでも言いましょうか... 2番の 「寡黙な季節 紅挿す君が 大人になれば 少しせつなく」 3番の 「華やぐ季節 綺麗な君が 駆け抜けてゆく 空 花曇り」 という部分は最終形が出来るまでそれぞれ1週間を要しました。 作詞する際には、『真実は細部に宿る』という言葉に抗うことが出来ず、悶々とした試行錯誤の時間を過ごすこともしばしばですが、 この曲は内容が繊細なのでより言葉選びが慎重になりました。 テーマは重くもありますが、楽曲自体が重たく聴こえなければと願います。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 この歌を作ったのは、どうやら22歳の頃のようです。 (歌詞を書き写した当時のノートに1983年2月24日と書いてあるので) 精神状態があまり良好とは言い難い中、唯一の音楽的な拠り所であった、ライブハウス「いとでんわ」。 (『いとでんわ』という曲で歌っているように、5坪ほどしかななく、30人客が入ったら立ち見にならざるを得ないというところでしたが) 私は日々、客があまり来ないそのライブハウスで店番の傍ら、演奏の練習をしたり、曲を作ったりしていました。 今振り返ると、素晴らしい環境だったと言えましょう。 (店は常に赤字でしたが...) ですが、出来る曲は大概暗い歌で、店に出入りしていた女子中学生(けして淫行していたわけではありませんよ)から「かわもとさん、もうちょっと明るい歌も作ったら?」と言われる始末でした。 そこで一念発起して、かなり無理やり作ったのが、この『紙飛行機のラブレター』だったと記憶しています。 あの頃、行き場のないのは自分だけでなく、店にやって来る中学生や高校生の子たちも似たような境遇だったのかもしれません。 あの子たちも、今は50歳を超えているはずですが、元気でいるのでしょうか。 会いたいような、会いたくないような... |
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【詞への思い入れ】 春のうららかな午後、教室の窓越しの絶妙に温かい日射しに眠気を誘われる16歳の少年の夢。 まだ出会うことのない未来の恋人がいったい誰なのかを空中遊泳しながら探すという図です。 持て余す熱情、自分が何者であるのかわからない恍惚と不安。 思春期特有の形容し難い非論理の形而上学。 それでも、かわもと楽曲の中ではかなり爽やかな部類に入りますが(^^ゞ AKB48が歌う『365日の紙飛行機』に先駆けること32年。 だいぶ時代の前を歩いていたようです(笑) |
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拙曲『モデラート』と並んで、歴代かわもとソングの中で最も自画像的な作品だと自覚しています。 『モデラート』がやや引いた目線で渇いた語彙を用いているのに対して、この曲は直接的で語彙もやや濡れているかと。 歌い出しの「時々僕のことを思い出して 君が眠れない夜には」からして、その女々しさは炸裂していると言えましょう。 そして、あまりにも自身を投影しているためか、世界観を構築するのにたいへんな歳月を要してしまった作品でもありました。 最終的に出来上がったのは2017年のことでしたが、30年以上前に、コンビニの夜勤に出掛ける電車の中でふと思いついたその頭サビが消えてなくなることはなく、いつかこれが曲として陽の目を見ることを夢想していました。 「約束はいつも頼りないもので 未来など縛れない」 という歌詞は諦観にも似た呟き... そして 「さよなら 約束の歌 心を突き刺せ 響け 君に届け」 は2014年に音楽活動を再開して以来、ずっと信条としている言葉そのものです。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 曲が生まれるきっかけは、ハイデ・ローゼンダールという名前のドイツの女子陸上選手。 美人のロングジャンパーで、1972年ミュンヘンオリンピックの走り幅跳び金メダリストでもありますが、実はそうした事実より、とにかくその名前の響きが少年の心を鷲掴みしたわけです。 それが巡り巡って、この歌のタイトルとなりました。 |
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その活躍ぶりは祖国で切手にもなったほど... |
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【詞への思い入れ】 サビのところで繰り返し使われる「Friday 不埒なローゼンダール」という歌詞にはさしたる意味はありません。 作った当時、“すべての言葉に意味がある歌詞”に対してやや懐疑的になっていたこともあって、敢えて脈絡のない外国人の名前を入れた歌を作ろうとして、思い起こされたのが「ローゼンダール」だったのです。 「Friday 不埒な」も語感から採用されたものですが、その背景には週末だけ会える、他人様には公言出来ないような間柄の、やや薄幸な女性が見え隠れします。 そして、会っている間だけは貪るように愛し合うふたり。 「娼婦と女神 背中合わせの黄昏 君を綺麗にさせる 他の誰かを好きになっても きっと 怨まないよと 言えばまた涙」 のちの『HOTEL IMMORAL』へと連なる背徳ソングだと言えましょう。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 ライブのMCで「26歳の誕生日の夜、あまりにも寂しくて、4畳半一間、風呂なし、便所共同という部屋で膝を抱えて作った」というエピソードを話しますが、実はちょっと盛ってます(笑) この歌だけでなく、かわもとソングには「友だちと妹と恋人との間にある微妙な境界線」を歌う曲がいくつかあります。 拙曲『古いラブソングは似合わない』では、長い間妹でいてくれた君を抱きしめてくちづけするというシーンも歌っていますし... その根本的な原因は小学生だった頃に聴いた、南沙織の『ともだち』という歌にあるのかと分析しています。 私と同年代の人は、その歌を耳にしたことがあろうかと思いますが、その詞の中に「妹か恋人かともだちになりたいの」というフレーズ(作詞者は伊東ゆかりの『小指の思い出』などを手掛けた有馬三恵子)がありました。 それはひどく印象的で、男女間に於いて、その「妹」「恋人」「ともだち」の3つの関係性にどういう優先順位があるのか、11歳の少年かわもとにはわかりかねるものでしたが、やがて、そのうちの1つから別の1つへと変化することがそう珍しいことではないということは理解されました。 そして、しばらくの時を経て、歌を作りだした若きかわもとは、楽曲作成の大きなテーマの一つとして「妹か恋人かともだちか」を無意識にチョイスしていたわけです。 【詞への思い入れ】 『Oh My Friend』はまさしくその混沌の只中にあるふたりが、自分たちの関係性を手探りしながら葛藤して生きた結果、若さゆえにすれ違い、お互いを傷つけて終わるという、せつない歌です。 「海の見える場所で 僕に抱かれながら 遠くを見つめていたね」で始まる全ての歌詞は、当時の自分の分身だったのです。 そして、終盤の「忘れられぬように 深く傷つけて 君と別れたあの日」という歌詞には、作ってから30年以上の年月を経ても、強いリアリティを感じます。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 ミュージシャンである自分のことを見捨てていったあの女に、いつかこの歌の詞のように思わせたい、という一念が生んだ楽曲と言えましょう。 歌を歌う自分のことを歌にする「歌中歌」(歌という字が多すぎてクラクラしそうだけど)もいくつかありますが、女性目線からのものはこの作品だけですね。 『モデラート』や『約束の歌』といった作品(これから頑張ってアップしますね)は、フラれちゃった僕の目線から歌っているので、女々しさが溢れています(それが嫌いじゃないから困りものです...)が、この歌はオンナ言葉で作ってあるので、逆説的ではありますが、女々しさは回避されています。 【詞への思い入れ】 全体的に自分にとって都合の良い設定がされています(笑) そもそも冒頭から「新しい彼女に少しジェラシー」ですから(^^)/ 好きな詞は「せつなく囁くバラード 疲れた私を二十歳に戻す歌」というところです。 歌うことによって誰かの気持ちを癒したり、元気づけたり、或いは悲しい気持ちに浸ってもらったり... それこそがミュージシャンに出来る最大の贈りものかと思います。 常に“あなたの心に突き刺さりたい”と言っていますが、本当に聴いてくれる一人ひとりの心に影を落とせるような楽曲を届けたいという願望があります。 この歌を歌うと、その初心を思い起こします。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 タイトルからお察しのように、この曲はO・ヘンリーの名作『賢者の贈り物』にその着想がありました。 中学時代に英語の教科書で読んで、感動しました。 もちろん、単にO・ヘンリーの小説の中身をなぞるのではなく、オリジナリティをたっぷりと加えて仕上げたつもりです。 自分の中では、同じくO・ヘンリーの作品に着想を得て作られた『最後の一葉』(歌・太田裕美、作詞・松本隆、作曲・筒美京平)を超えるような作品にしたいなぁと密かに思っていたわけです。 【詞への思い入れ】 原作では女性の名前が「デラ」、男性の名前が「ジム」でだったそうです。 (伝聞調になっているのは、ついさっきネットで調べたからです) 曲を作ろうと思い立った時には既に彼らの名前など憶えておらず、それが却ってよかったのかもしれません。 記憶があったり、今のようにネットで簡単に検索できたら、おそらくその名前の響きから作品に至ってなかったという気がします。 ですから、歌の中の少年の名前がなぜB.B.ジョーンで、少女の名前がフルーティ・ルーなのかというのも、そりゃメロディに乗りやすいからであって(苦笑)、原作とは全く関係ありません。 しかも、最初に作った時には「プリティ・ルー」だったのですが、やはりどうしても「プリ」の音がうまく乗らず、「フルーティ・ルー」に変更したという経緯もあります。 ただ、原作のイメージを完全には損ねないよう、最後は髪を切ったフルーティ・ルーにB.B.ジョーンがプロポーズして、めでたく終わるという話にはしてみました。 「変わらぬ愛を伝えに来たのはB・B・ジョーン 片手に草で編んだ髪飾り 最後に選んだ人の名前はフルーティ・ルー 自慢の髪はまだ少し短いけれど...」 これほどのメルヘンは後にも先にもありません。 NHK「みんなの歌」で使われるつもりでいましたが、全く叶っておりません(笑) ちなみに「遅れて来た少年の名前はB.B.ジョーン」という冒頭部分が、現在の私の通称“遅れて来た抒情おじさん”の由来となっています。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 そもそも、どうして友達の彼女(彼氏)や奥さん(旦那さん)は輝いて見えるのでしょうか... そう感じる本能が備わっているとしか思えないわけです。 誰かが「不倫は文化だ」と言いました。 それに賛同は出来かねますが、少なくとも「不倫は誰にでもあり得る」というのは確かでしょう。 背徳感。 それは色恋の濃度を上げる媚薬。 古来、多数の作家たちが様々な切り口から作品化してきた永遠のテーマに挑んでみました。 【詞への思い入れ】 前回ワンマンライブ(2018.11.11)アンケートでぶっちぎりNo. 1楽曲。 ライブのゲストだった直木賞作家の重松清がイチ押しだった影響もあるでしょうが、とにかく「情景を描くことで心情を描く」ということに徹した作品ではあります。 かつて旅した小樽、運河の夜景。 「月を浮かべた川を 見つめて黙る君の 肩を抱き寄せた夜が 始まりだった」 という歌詞に込めた、刹那の感情が聴く人にどこまで届くか。 只今不倫中の皆さん、是非ご一聴を。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 有名・無名を問わず、自分と同世代の人間の訃報に触れる機会が増え、もちろん故人そのものへの愛おしさ、惜別の情といったものはあるのですが、残される側の受け止め方についても様々考えさせられます。 この曲では、亡き妻への思慕を抱きつつ、終の棲家を探し、その部屋からの景色に心動かされる男の心情を出来るだけ淡々と綴ってみました。 死というのは万人に訪れるものなので、それほど恐れるものではないのかもしれませんが、語らうべき相手を失った側の寂寥感はいかばかりでしょう... 【詞への思い入れ】 この歌の原風景は、終の棲家に荷物をほどいた男が、窓から覗く子どもたちの姿に微かな安らぎを見つけ、亡き妻に報告するというところにあります。 冒頭と最後に登場する「部屋の窓からは 木洩れ日越しに 子どもたちの姿 悪くはない場所だよ」にある意味全てが込められていると言えるでしょう。 こういうテーマで曲を作ったのは初めてでした。 そして、初めてゆえに、出来るだけ穏やかな語彙で、しかも聴く人の脳裏に圧倒的イメージが浮かぶ詞を書きたいという、相反する欲求が葛藤した作品でもありました。 あなたの胸に届くといいなぁ... |
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【楽曲誕生のエピソード】 職場(予備校)でのかつての教え子で、現在は同僚でもある「涙もろい僕」が結婚することになり、書き下ろすことになった結婚ソング。 これまでも、のちに直木賞作家となる重松清をはじめ、相当数の人(カップル)のために、取材をし、二人の馴れ初めや世界観を掘り起こし、披露宴会場で歌うのに問題がないような言葉遣いに整え、ちゃんと感動する要素も入れて...という作業をしてきました。 結婚ソングを作るのは、正直、結構苦労します。 歌を披露するのも式のクライマックスのことが多く、それまで酔っ払うことも許されないばかりか、メインディッシュを食い逃がすことも度々... そして、何とご祝儀まで包んで持って行くという“盗人に追い銭”状態(笑) それでも作ろうという気持ちになるのは、対象者が自分にとって大切な人たちであり、もしかしたら彼らの一生の記念、宝ものになるかもしれないと思うからです。 当人たちが祝福されるのはもちろんですが、両家の人々、ご親戚、友人・知人といった人たちにも喜んでもらいたいなぁというサービス精神は持ち合わせているつもりですので(^^♪ |
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【詞への思い入れ】 この歌は「僕」が「君」に出会う日の回想シーンから始まりますが、かわもと作品としては異例で、最初に出来たのは「空っぽな僕の部屋に天使が舞い降りたんだ」というBメロの部分でした。 そのBメロ部分を生かすために試行錯誤して辿り着いたのが「初めて会うのになぜか懐かしい あの時の空は眩しかった」というAメロのメロディと歌詞でした。 これが嵌まった時、この歌の軸が決まりました。 自分で好きなのは2番サビの「僕たちの船は頼りない木の葉 行く手を険しい波が阻んでも やがて生まれ来る乗船員(クルー)と手を取り 乗り越えてゆこう ふたりの記念日」という箇所ですね。 それまで他人だった人と同居し、新しい家族になるという契約を結ぶというのは重い決断ですが、新たに漕ぎ出す船はあまりにも軽い... そこに、さらに新しい家族が誕生することで、そのギャップが少しずつ埋まってゆくという... この歌、自分でも結構気に入ってます(^^♪ |
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【楽曲誕生のエピソード】 よく「実話ですか?」と聞かれますが、実話の要素1割とフィクション9割です。 (この歌に限らず、私は実話に構想を得て、一般化しながら、でもその実話となった対象には突き刺さる歌を作りたいと願っています) この歌は「おっさんも恋をする」というところに力点があります。 それなりの年齢を重ねた男と女には、当然それぞれにけして軽くはない背景も見え隠れしますが、それを乗り越えて結ばれようとする時、そこに関わる人(この歌では恋した相手女性の娘)との関係性をどう築くかは大きな問題となります。 そこを「直筆の手紙」「マイクパフォーマンス」で口説くという古いタイプの男がちょっとカッコいいと思って作りました。 20代では絶対に作れなかった曲、という意味では『ひまわり通信』と並んで新しいスタイルの作品ですね。 【詞への思い入れ】 |
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【楽曲誕生のエピソード】 時はバブル。 大井競馬場からほど近くに実在した雀荘“クァルテット”。 私はたまたまその雀荘の近所にあるコンビニで週4〜5日夜勤のバイト(12時間ずっと店員一人というかなり恐ろしいシフト)をしていました。 で、その雀荘のママさん(ロミ山田という芸能人に似た美人でした)がしばしばコンビニに買い物に来て、世間話をするようになり、そのうちなぜか乞われて、彼女の高校生になる息子(ほぼ毎夜ディスコで踊りまくり、ナンパしまくる大バカ野郎でした)の家庭教師(彼女の自宅で)をするハメに。 ある日、家庭教師をしていると、「今メンバーが足りないのよ。勉強の方はいいから、お店の方にちょっと来てよ」という電話が掛かって来て、顔を出してみると... そこには土地を売って莫大な金を手にした男、株で大儲けした男、そもそも大金持ちである競走馬の馬主の男、その金を狙ってギャンブルに血道をあげる男、さらにはそれに一枚噛もうとする市井の人々... 大井競馬が開催される時には、百万円の束をやり取りする鉄火場と化す雀荘。 まさに阿鼻叫喚の密室。 世紀末的な熱に浮かれた舞台。 当時のコンビニ夜勤の時給が900円だった私にはクラクラするような光景でした。 しかし、今思うに、この曲をライブではピアノの弾き語りで演奏していたというのは、我ながらすごいなぁと。 今、出来るのだろうか... 折あらばチャレンジしてみますね。 【詞への思い入れ】 |
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この歌は最近のライブではずっと聴衆参加ソング(笑)として、最後の「ラララ キッチン馬鈴薯」という部分を歌ってもらっています。 かわもと定番ソングの1つですね。 実際、この歌を作ったことで、音楽を続けていこうという決心が生まれたとの言える、記念碑的な作品だと思っています。 |
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【楽曲誕生のエピソード】 たびたびライブMCでも話している通り、私が大学時代(というより、大学の近くに住んでいた時代、というのが正しいですね)にバイト先の定食屋『キッチン馬鈴薯』で、ひとかたならぬお世話になったマスター夫妻に捧げる歌です。 いつも腹を空かせていた私は、そこで出してくれる賄いご飯がなかったら、文字通り飢え死にしていたのではないかと思うほどで、本当に命の恩人とも言える人たちなのです。 歌の中にも登場するように、数あるメニューのうち、一番人気は「ジンギスカン定食」で、豚のバラ肉をラードで炒め、秘伝のタレをかけてあるのですが、あれは絶品でした。 賄いにジンギスカン定食を食べさせてくれる時はバイトの仲間うちではしばしば「オレは毎日ジンギス(厨房に注文を通す時の符丁)でも生きていける」という会話がなされていたのを思い出します。 今、最後の晩餐に何が食べたいかと訊かれれば、迷いなく「ジンギスカン定食」と答えることでしょう。 漫画化されて、「思い出食堂」(少年画報社・刊)にも掲載されましたが、残念ながらマスター夫妻の情報は全く届きません。 ちゃんとお礼を言いたいのです。 生きていてくれるとよいのですが... 【詞への思い入れ】 自ら好きな歌詞は「都会に慣れない僕たちを優しく迎えるレストラン 相席も構わない 僕も優しくなれる」というところです。 東京は基本的には田舎者の街ですが、その巨大さゆえに自分が拒絶されているのではないかと感じる若者も多いですよね。 学生街にある定食屋はそうした疑心暗鬼を溶かしてくれる存在でもあったわけです。 マスターは愛想がいいとは言い難い人ではありましたが、それでも心の中では早稲田の学生達への愛情は、来店した人にはわかるという類のものでした。 2番冒頭の「人気のメニューはジンギスカン ラードで炒めた豚バラに 秘伝のタレをかけて 魔法の味に変える」というのはまさしく実感です。 馬鈴薯でバイトさせてもらって以来、最も好きな肉が豚バラというひじょうに安上がりな体質になったことにも感謝ですね(笑) |
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あの娘に横恋慕[1988年作] 動画はこちら |
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【楽曲誕生のエピソード】 1986年〜1988年頃というのは、それまでのかわもと的楽曲から敢えて外れるようなものを作りたいという野心に満ちていました。 『京浜賭博地帯』や『スゥスゥ』 といった、現在でもライブで演奏される楽曲はもちろん、その他ほぼ埋もれてしまっているようなものも、ある種の決意を以って作っていました。 年齢が20代の終りに近づいて、音楽で食べて行ける目途も立たず、ただ新しい楽曲を創る意欲だけは異様にあって... 曲を作るためのヒントをいつも探し、気持ちは日々尖っていました。 ある種のソングライターハイ状態だったと言えましょう。 しかし、現実的には東京で頼りにしていた「いとでんわ」というライブハウスが閉店して、身の置き場も心の拠り所もないまま、生活のためにバイトせざるを得ず、その合間を縫って曲作りをしていたわけです。 コンビニの夜勤(12時間ずっと一人だけ!)の仕事も随分長い間続けましたが、店にはBGMとして常に有線放送が流れていて、私はいつも最新のニューミュージック系の楽曲を仕事をしながら聴いていました。 ある夜、どこか聞き覚えのある歌声が流れてきて、もう理由はわからないのですが、コンビニのレジカウンターの中で嗚咽してしまいました。 その曲が岡村孝子の『風は海から』でした。 (もちろん初めて聴いたので、その時は誰が歌っているのかも、タイトルもわかりませんでしたが) 『待つわ』という楽曲がYAMAHAポプコンでグランプリを獲り、初めてテレビでその曲を聴いた際、衝撃が走ったことを憶えています。 特に「青く広いこの空 誰のものでもないわ 風にひとひらの雲 流して流されて」と歌うBメロが、嫉妬するほどよく出来ていると感心したものでした。 しかも、岡村孝子のビジュアルは私のストライクゾーンにズバリでした...(笑) それがどうやら1982年のことらしく、彼女は(というか、あみんは)その後ヒット曲に恵まれぬままフェードアウトしていったのかと思っていました。 俗に言う「一発屋」なのかと。 『風は海から』 は1985年の終わり頃の発売されたようで、どういう経緯でその曲が作られ、世に出たのかは知る由もありませんが、真夜中コンビニで有線放送から流れる彼女の歌は、勤労する青年かわもとひろのぶに突き刺さったのでした。 「岡村孝子も不遇の時代もあったけど、頑張ってこの歌を世に送り出すまでになったんだ...」と感慨深かったです。 前置きが長くなりましたが、『あの娘に横恋慕』という歌の妄想上のモデルはその岡村孝子であり、彼女の『風は海から』に強烈にインスパイアされた楽曲だということです。 彼女はその後『夢をあきらめないで』などの大ヒット曲も出しましたが、私にとっての岡村孝子は不遇の時代を経て『風は海から』を世に送り出した、健気な頑張り屋さんというイメージです。 【詞への思い入れ】 童謡『かくれんぼ』に着想を得て(「横恋慕」と音が似ているから、という理由ですが)、また、“男版「まちぶせ」(ユーミン作詞・作曲)”“男版「待つわ」(岡村孝子作詞・作曲)”という世界観を意識しつつ、作ってみました。 密かに思っていた“あの娘”を自分の親友“あいつ”も好きになってしまう... ま、あとは歌を聴いて頂ければ(^^♪ |
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今年も入学式シーズンが到来中ですね。 特に中学校の入学式というのは、子どものこれからの体の成長を考える親がやや大きめの制服を着せているという情景が、微笑ましく、見るたび、気持ちが和みます。 【楽曲誕生のエピソード】 2016年早春に行われた、私の母校である茅ヶ崎市立鶴嶺中学校の卒業40周年の同窓会のテーマソングとして書き下ろしました。 中学時代というのは、混沌の時代であり、大人になる前のあらゆる原体験をさせてくれたステージではありますが、それゆえ、どういう切り口から作ってゆくか、ということは悩ましかったです。 入学から卒業までを紙芝居風に、ある意味淡々と描いてゆこうと決めたら、そこから先は猛烈な勢いで録音まで至りました。 【詞への思い入れ】 1番の「部活帰りに飲み干すチェリオ なぜかとてもおいしい」という歌詞が出来た時、そこから先の世界観がほぼ出来上がったと言えましょう。 チェリオは当時の部活帰りの少年たちの定番でしたからね。 そして、何よりも、あの頃の友との別れ際の言葉が「じゃあまた明日ね」に代表されることを、歌を作りながら思い起こして、キーフレーズに据えました。 自分で気に入っているのは3番冒頭の「目立たぬ人で穏やかで 時折笑顔可愛くて 奥手な僕も恋をして そして敗れ去ったよ」というところです。 中学時代の恋って、ほぼ実体がないというか、好きだという気持ちだけで胸がいっぱい。 淡くて、せつなくて... |
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【楽曲誕生のエピソード】 2017年2月のとある寒い深夜。 素っ裸になり、風呂に入ろうとしている時に突如それは降りてきました。 楽曲が“出来る”時というのはたいていそうなのですが、とにかく唐突なのです。 かつては、路上で自転車に乗っている時に「すげぇメロディ」(たぶん)を思いついて、それを忘れないように、必死で楽器やテープレコーダー(笑)のあるところまで歌い続けてたどり着いた時には、「あれ、何だっけ?」とか「こんな陳腐なメロディだっけ?」という事態になっていることもしばしばでしたが、今はサイズの小さい録音機やスマホがあるので便利ですね。 そして、とにかく忘れないように、素っ裸のままスマホを取って来て「♪相模線は走る〜♪」というサビの部分を録音した次第です。 この歌を歌うたびに、その時の寒かった記憶が甦ります。 |
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この曲はしばしば「どこが舞台ですか?」と尋ねられます。 歌を1回聴いただけではなかなかわかりづらいのかもしれませんね。 外務省に勤める大学時代の友人から、たまたま酒席で「ミャンマーの女の子はパンダみたいな名前が多くて、今でも(1980年代中盤の話ですが)川の中で髪を洗ったり、洗濯している」という話を聞き及び、沸々と創作意欲が湧いたのでした。 私は楽曲を作る際、時として登場人物に出身地・年齢・性別・履歴・性格といったものを仮に割り振りすることがありますが、この曲では19歳の乙女スゥスゥはイラワジ川流域に住んでいて、ロシアに放浪の旅に出た恋人ピルミンの帰りを待つというのが原風景でした。 ミャンマーには行ったこともなく、どんな空気感なのかも全て想像で作りました。 スゥスゥの乙女心を描くというより、なるべく彼女の背景にある絵を描くことで、その心情を伝えられればという思いでした。 この曲はイメージとしてはトワエモアの元ボーカリストである白鳥英美子さんが歌ってくれたら嬉しいなぁと思って作った記憶があります。 (当時、キングレコードのスタジオで彼女が録音するのをたまたま見ていたからかもしれません) そして、あるライブハウスでこの曲を弾き語りで演奏しているのを聴いてくれた人が、のちに私のアレンジ(オリジナルバージョン)とは別のアレンジ(シルクロードバージョン)をしてくれ、さらにはそのアレンジを聴いた別の人が斬新なアレンジ(フォレストバージョン)をしてくれたという経緯もあって、3つのアレンジは聴く人によって好みは大きく分かれます。 余程お時間のある方は3つとも聴いて、感想をお聞かせ下さいませ(^^♪ ちなみに、ライブではオリジナルバージョンに近い演奏になる予定です。 |
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「スゥスゥ」オリジナルバージョン | |
「スゥスゥ」シルクロードバージョン |
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「スゥスゥ」フォレストバージョン |
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しかし、30年以上眠ったままであった作りかけの作品が、簡単に仕上がるほど甘くはなく、「もうすぐ出来上がりそうなのに、なかなか出来上がらない」とじりじりしながらの約1週間。 ツラいけど、至福の時間を過ごし、遂に楽曲の完成に至りました。 |
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