お待たせしました!ライブの予習・復習にご活用あれかし
 

 
紙飛行機のラブレター[1983年作]190422up 約束の歌[2017年作]190421up ローゼンダール[1984年作]190420up
Oh My Friend[1986年作]190419up You are my musician[1983年作]190418up
賢者の贈りもの[1986年作]190417up HOTEL IMMORAL[2018年作]190416up
ひまわり通信[2017年作]190415up 僕たちの船[2018年作]190414up 父娘日和[2017年作]190413up
京浜賭博地帯[1988年作]190412up キッチン馬鈴薯[2015年作]190411up あの娘に横恋慕[1988年作]190410up
桜の花が咲く頃に[2016年作]190409up 相模線旅情[2017年作]190408up スゥスゥ[1987年作]190407up
 


紙飛行機のラブレター[1983年作]
 
 
【楽曲誕生のエピソード】

この歌を作ったのは、どうやら22歳の頃のようです。
(歌詞を書き写した当時のノートに1983年2月24日と書いてあるので)

精神状態があまり良好とは言い難い中、唯一の音楽的な拠り所であった、ライブハウス「いとでんわ」
(『いとでんわ』という曲で歌っているように、5坪ほどしかななく、30人客が入ったら立ち見にならざるを得ないというところでしたが)

私は日々、客があまり来ないそのライブハウスで店番の傍ら、演奏の練習をしたり、曲を作ったりしていました。

今振り返ると、素晴らしい環境だったと言えましょう。
(店は常に赤字でしたが...)

ですが、出来る曲は大概暗い歌で、店に出入りしていた女子中学生(けして淫行していたわけではありませんよ)から「かわもとさん、もうちょっと明るい歌も作ったら?」と言われる始末でした。

そこで一念発起して、かなり無理やり作ったのが、この『紙飛行機のラブレター』だったと記憶しています。

あの頃、行き場のないのは自分だけでなく、店にやって来る中学生や高校生の子たちも似たような境遇だったのかもしれません。

あの子たちも、今は50歳を超えているはずですが、元気でいるのでしょうか。

会いたいような、会いたくないような...
 
【詞への思い入れ】

春のうららかな午後、教室の窓越しの絶妙に温かい日射しに眠気を誘われる16歳の少年の夢。

まだ出会うことのない未来の恋人がいったい誰なのかを空中遊泳しながら探すという図です。

持て余す熱情、自分が何者であるのかわからない恍惚と不安。

思春期特有の形容し難い非論理の形而上学。


それでも、かわもと楽曲の中ではかなり爽やかな部類に入りますが(^^ゞ

AKB48が歌う『365日の紙飛行機』に先駆けること32年。

だいぶ時代の前を歩いていたようです(笑)
 
「紙飛行機のラブレター」動画
 


約束の歌[2017年作]
 
 
拙曲『モデラート』と並んで、歴代かわもとソングの中で最も自画像的な作品だと自覚しています。

『モデラート』がやや引いた目線で渇いた語彙を用いているのに対して、この曲は直接的で語彙もやや濡れているかと。

歌い出しの「時々僕のことを思い出して 君が眠れない夜には」からして、その女々しさは炸裂していると言えましょう。

そして、あまりにも自身を投影しているためか、世界観を構築するのにたいへんな歳月を要してしまった作品でもありました。

最終的に出来上がったのは2017年のことでしたが、30年以上前に、コンビニの夜勤に出掛ける電車の中でふと思いついたその頭サビが消えてなくなることはなく、いつかこれが曲として陽の目を見ることを夢想していました。

「約束はいつも頼りないもので 未来など縛れない」


という歌詞は諦観にも似た呟き...

そして

「さよなら 約束の歌 心を突き刺せ 響け 君に届け」

2014年に音楽活動を再開して以来、ずっと信条としている言葉そのものです。
 
「約束の歌」動画
 
 


ローゼンダール[1984年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

曲が生まれるきっかけは、ハイデ・ローゼンダールという名前のドイツの女子陸上選手。

美人のロングジャンパーで、1972年ミュンヘンオリンピックの走り幅跳び金メダリストでもありますが、実はそうした事実より、とにかくその名前の響きが少年の心を鷲掴みしたわけです。

それが巡り巡って、この歌のタイトルとなりました。

 

 
その活躍ぶりは祖国で切手にもなったほど...
 
【詞への思い入れ】

サビのところで繰り返し使われる「Friday 不埒なローゼンダール」という歌詞にはさしたる意味はありません。

作った当時、“すべての言葉に意味がある歌詞”に対してやや懐疑的になっていたこともあって、敢えて脈絡のない外国人の名前を入れた歌を作ろうとして、思い起こされたのが「ローゼンダール」だったのです。

「Friday 不埒な」も語感から採用されたものですが、その背景には週末だけ会える、他人様には公言出来ないような間柄の、やや薄幸な女性が見え隠れします。

そして、会っている間だけは貪るように愛し合うふたり。

「娼婦と女神 背中合わせの黄昏 君を綺麗にさせる 他の誰かを好きになっても きっと 怨まないよと 言えばまた涙」

のちの『HOTEL IMMORAL』へと連なる背徳ソングだと言えましょう。
 
「ローゼンダール」動画
 


Oh My Friend[1986年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

ライブのMCで「26歳の誕生日の夜、あまりにも寂しくて、4畳半一間、風呂なし、便所共同という部屋で膝を抱えて作った」というエピソードを話しますが、実はちょっと盛ってます(笑)

この歌だけでなく、かわもとソングには「友だちと妹と恋人との間にある微妙な境界線」を歌う曲がいくつかあります。

拙曲『古いラブソングは似合わない』では、長い間妹でいてくれた君を抱きしめてくちづけするというシーンも歌っていますし...

その根本的な原因は小学生だった頃に聴いた、南沙織の『ともだち』という歌にあるのかと分析しています。

私と同年代の人は、その歌を耳にしたことがあろうかと思いますが、その詞の中に「妹か恋人かともだちになりたいの」というフレーズ(作詞者は伊東ゆかりの『小指の思い出』などを手掛けた有馬三恵子)がありました。

それはひどく印象的で、男女間に於いて、その「妹」「恋人」「ともだち」の3つの関係性にどういう優先順位があるのか、11歳の少年かわもとにはわかりかねるものでしたが、やがて、そのうちの1つから別の1つへと変化することがそう珍しいことではないということは理解されました。

そして、しばらくの時を経て、歌を作りだした若きかわもとは、楽曲作成の大きなテーマの一つとして「妹か恋人かともだちか」を無意識にチョイスしていたわけです。

【詞への思い入れ】

『Oh My Friend』はまさしくその混沌の只中にあるふたりが、自分たちの関係性を手探りしながら葛藤して生きた結果、若さゆえにすれ違い、お互いを傷つけて終わるという、せつない歌です。

「海の見える場所で 僕に抱かれながら 遠くを見つめていたね」
で始まる全ての歌詞は、当時の自分の分身だったのです。

そして、終盤の「忘れられぬように 深く傷つけて 君と別れたあの日」という歌詞には、作ってから30年以上の年月を経ても、強いリアリティを感じます。
 
「Oh My Friend」動画
 
 


You are my musician[1983年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

ミュージシャンである自分のことを見捨てていったあの女に、いつかこの歌の詞のように思わせたい、という一念が生んだ楽曲と言えましょう。

歌を歌う自分のことを歌にする「歌中歌」(歌という字が多すぎてクラクラしそうだけど)もいくつかありますが、女性目線からのものはこの作品だけですね。

『モデラート』『約束の歌』といった作品(これから頑張ってアップしますね)は、フラれちゃった僕の目線から歌っているので、女々しさが溢れています(それが嫌いじゃないから困りものです...)が、この歌はオンナ言葉で作ってあるので、逆説的ではありますが、女々しさは回避されています。


【詞への思い入れ】


全体的に自分にとって都合の良い設定がされています(笑)

そもそも冒頭から「新しい彼女に少しジェラシー」ですから(^^)/

好きな詞は「せつなく囁くバラード 疲れた私を二十歳に戻す歌」というところです。

歌うことによって誰かの気持ちを癒したり、元気づけたり、或いは悲しい気持ちに浸ってもらったり...

それこそがミュージシャンに出来る最大の贈りものかと思います。

常に“あなたの心に突き刺さりたい”と言っていますが、本当に聴いてくれる一人ひとりの心に影を落とせるような楽曲を届けたいという願望があります。

この歌を歌うと、その初心を思い起こします。
 
 
「You are my musician」動画
 
 


賢者の贈りもの[1986年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

タイトルからお察しのように、この曲はO・ヘンリーの名作『賢者の贈り物』にその着想がありました。

中学時代に英語の教科書で読んで、感動しました。

もちろん、単にO・ヘンリーの小説の中身をなぞるのではなく、オリジナリティをたっぷりと加えて仕上げたつもりです。

自分の中では、同じくO・ヘンリーの作品に着想を得て作られた『最後の一葉』(歌・太田裕美、作詞・松本隆、作曲・筒美京平)を超えるような作品にしたいなぁと密かに思っていたわけです。


【詞への思い入れ】

原作では女性の名前が「デラ」、男性の名前が「ジム」でだったそうです。
(伝聞調になっているのは、ついさっきネットで調べたからです)

曲を作ろうと思い立った時には既に彼らの名前など憶えておらず、それが却ってよかったのかもしれません。

記憶があったり、今のようにネットで簡単に検索できたら、おそらくその名前の響きから作品に至ってなかったという気がします。

ですから、歌の中の少年の名前がなぜB.B.ジョーンで、少女の名前がフルーティ・ルーなのかというのも、そりゃメロディに乗りやすいからであって(苦笑)、原作とは全く関係ありません。

しかも、最初に作った時には「プリティ・ルー」だったのですが、やはりどうしても「プリ」の音がうまく乗らず、「フルーティ・ルー」に変更したという経緯もあります。

ただ、原作のイメージを完全には損ねないよう、最後は髪を切ったフルーティ・ルーにB.B.ジョーンがプロポーズして、めでたく終わるという話にはしてみました。

「変わらぬ愛を伝えに来たのはB・B・ジョーン 片手に草で編んだ髪飾り 最後に選んだ人の名前はフルーティ・ルー 自慢の髪はまだ少し短いけれど...」


これほどのメルヘンは後にも先にもありません。

NHK「みんなの歌」で使われるつもりでいましたが、全く叶っておりません(笑)

ちなみに「遅れて来た少年の名前はB.B.ジョーン」という冒頭部分が、現在の私の通称“遅れて来た抒情おじさん”の由来となっています。
 
 
「賢者の贈りもの」動画
 
 


HOTEL IMMORAL[2018年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

そもそも、どうして友達の彼女(彼氏)や奥さん(旦那さん)は輝いて見えるのでしょうか...

そう感じる本能が備わっているとしか思えないわけです。

誰かが「不倫は文化だ」と言いました。

それに賛同は出来かねますが、少なくとも「不倫は誰にでもあり得る」というのは確かでしょう。

背徳感。

それは色恋の濃度を上げる媚薬。


古来、多数の作家たちが様々な切り口から作品化してきた永遠のテーマに挑んでみました。

【詞への思い入れ】

前回ワンマンライブ(2018.11.11)アンケートでぶっちぎりNo. 1楽曲。

ライブのゲストだった直木賞作家の重松清がイチ押しだった影響もあるでしょうが、とにかく「情景を描くことで心情を描く」ということに徹した作品ではあります。

かつて旅した小樽、運河の夜景。

「月を浮かべた川を 見つめて黙る君の 肩を抱き寄せた夜が 始まりだった」

という歌詞に込めた、刹那の感情が聴く人にどこまで届くか。

只今不倫中の皆さん、是非ご一聴を。
 
 
「HOTEL IMMORAL」動画
 
 


ひまわり通信[2017年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

有名・無名を問わず、自分と同世代の人間の訃報に触れる機会が増え、もちろん故人そのものへの愛おしさ、惜別の情といったものはあるのですが、残される側の受け止め方についても様々考えさせられます。

この曲では、亡き妻への思慕を抱きつつ、終の棲家を探し、その部屋からの景色に心動かされる男の心情を出来るだけ淡々と綴ってみました。

死というのは万人に訪れるものなので、それほど恐れるものではないのかもしれませんが、語らうべき相手を失った側の寂寥感はいかばかりでしょう...

【詞への思い入れ】

この歌の原風景は、終の棲家に荷物をほどいた男が、窓から覗く子どもたちの姿に微かな安らぎを見つけ、亡き妻に報告するというところにあります。

冒頭と最後に登場する「部屋の窓からは 木洩れ日越しに 子どもたちの姿 悪くはない場所だよ」にある意味全てが込められていると言えるでしょう。

こういうテーマで曲を作ったのは初めてでした。

そして、初めてゆえに、出来るだけ穏やかな語彙で、しかも聴く人の脳裏に圧倒的イメージが浮かぶ詞を書きたいという、相反する欲求が葛藤した作品でもありました。

あなたの胸に届くといいなぁ...
 
「ひまわり通信」動画
 
 
 


僕たちの船[2018年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

職場(予備校)でのかつての教え子で、現在は同僚でもある「涙もろい僕」が結婚することになり、書き下ろすことになった結婚ソング。

これまでも、のちに直木賞作家となる重松清をはじめ、相当数の人(カップル)のために、取材をし、二人の馴れ初めや世界観を掘り起こし、披露宴会場で歌うのに問題がないような言葉遣いに整え、ちゃんと感動する要素も入れて...という作業をしてきました。

結婚ソングを作るのは、正直、結構苦労します。

歌を披露するのも式のクライマックスのことが多く、それまで酔っ払うことも許されないばかりか、メインディッシュを食い逃がすことも度々...

そして、何とご祝儀まで包んで持って行くという“盗人に追い銭”状態(笑)

それでも作ろうという気持ちになるのは、対象者が自分にとって大切な人たちであり、もしかしたら彼らの一生の記念、宝ものになるかもしれないと思うからです。

当人たちが祝福されるのはもちろんですが、両家の人々、ご親戚、友人・知人といった人たちにも喜んでもらいたいなぁというサービス精神は持ち合わせているつもりですので(^^♪
 
【詞への思い入れ】
 
この歌は「僕」が「君」に出会う日の回想シーンから始まりますが、かわもと作品としては異例で、最初に出来たのは「空っぽな僕の部屋に天使が舞い降りたんだ」というBメロの部分でした。

そのBメロ部分を生かすために試行錯誤して辿り着いたのが「初めて会うのになぜか懐かしい あの時の空は眩しかった」というAメロのメロディと歌詞でした。

これが嵌まった時、この歌の軸が決まりました。

自分で好きなのは2番サビの「僕たちの船は頼りない木の葉 行く手を険しい波が阻んでも やがて生まれ来る乗船員(クルー)と手を取り 乗り越えてゆこう ふたりの記念日」という箇所ですね。

それまで他人だった人と同居し、新しい家族になるという契約を結ぶというのは重い決断ですが、新たに漕ぎ出す船はあまりにも軽い...

そこに、さらに新しい家族が誕生することで、そのギャップが少しずつ埋まってゆくという...

この歌、自分でも結構気に入ってます(^^♪
 
「僕たちの船」動画
 
 


父娘日和(おやこびより)[2017年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

よく「実話ですか?」と聞かれますが、実話の要素1割とフィクション9割です。
(この歌に限らず、私は実話に構想を得て、一般化しながら、でもその実話となった対象には突き刺さる歌を作りたいと願っています)

この歌は「おっさんも恋をする」というところに力点があります。

それなりの年齢を重ねた男と女には、当然それぞれにけして軽くはない背景も見え隠れしますが、それを乗り越えて結ばれようとする時、そこに関わる人(この歌では恋した相手女性の娘)との関係性をどう築くかは大きな問題となります。

そこを「直筆の手紙」「マイクパフォーマンス」で口説くという古いタイプの男がちょっとカッコいいと思って作りました。

20代では絶対に作れなかった曲、という意味では『ひまわり通信』と並んで新しいスタイルの作品ですね。

【詞への思い入れ】

曲を聴く人にとって自身と重ねられるかどうかということにかなり配慮はしました。

時系列で物語を進行させるという手法は『桜の花が咲く頃に』と似ているかも。

だんだんとおっさんの気持ちが強くなってゆく様を表すのに「君の父さんには...」というフレーズを膨らませてみました。

気に入っているのは最後の「光差す梅雨の晴れ間 謹んで あなたの娘になります」という歌詞です。

実はそこまでの詞・曲・アレンジが全て出来上がってから1週間、ずっと悩んで悩んでようやくピタッと嵌ってくれた時の達成感は脳内麻薬が放出されるような(放出されたことはないですが...)感覚でした。

 
「父娘日和」動画
 
 
 


京浜賭博地帯[1988年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

時はバブル。

大井競馬場からほど近くに実在した雀荘“クァルテット”。

私はたまたまその雀荘の近所にあるコンビニで週4〜5日夜勤のバイト(12時間ずっと店員一人というかなり恐ろしいシフト)をしていました。

で、その雀荘のママさん(ロミ山田という芸能人に似た美人でした)がしばしばコンビニに買い物に来て、世間話をするようになり、そのうちなぜか乞われて、彼女の高校生になる息子(ほぼ毎夜ディスコで踊りまくり、ナンパしまくる大バカ野郎でした)の家庭教師(彼女の自宅で)をするハメに。

ある日、家庭教師をしていると、「今メンバーが足りないのよ。勉強の方はいいから、お店の方にちょっと来てよ」という電話が掛かって来て、顔を出してみると...

そこには土地を売って莫大な金を手にした男、株で大儲けした男、そもそも大金持ちである競走馬の馬主の男、その金を狙ってギャンブルに血道をあげる男、さらにはそれに一枚噛もうとする市井の人々...

大井競馬が開催される時には、百万円の束をやり取りする鉄火場と化す雀荘。

まさに阿鼻叫喚の密室。

世紀末的な熱に浮かれた舞台。

当時のコンビニ夜勤の時給が900円だった私にはクラクラするような光景でした。


しかし、今思うに、この曲をライブではピアノの弾き語りで演奏していたというのは、我ながらすごいなぁと。

今、出来るのだろうか...

折あらばチャレンジしてみますね。

【詞への思い入れ】
雀荘という場所には、時として社会に於いてはゴミのような存在(失礼)の人たちもたくさん徘徊していて、この曲の歌詞に書いたことはほぼ事実です。

特に「会社じゃ窓際 家で粗大ゴミ つらい父さんも有り金持ってシナ語の勝負」
「かくゆう私も日当たりの悪いボロ屋の住まい 質屋で買ったテレビだけが友達」といった行(くだり)は、他人様には語れない業を背負った男たちの哀愁であり、この曲の中では不可欠なピースでした。

この曲で人生を懸けた勝負として、AXIA MUSIC AUDITION 1989に出場し、槇原敬之の前に敗れ去ったというエピソードはライブMCでもしばしば語ります。

バラード風の曲でエントリーすればグランプリいけたのでは?という言葉も時々頂きますが、けして後悔はしていません。

あの時彼が立ちはだかってくれたお陰で、掴んだものもたくさんありましたから。

それにしても、彼が作ってSMAPが歌った『世界で一つだけの花』という曲は平成を通じて最も売れたシングルCDとのことで、敬意を表します。

勝手に“ライバル”なんて呼んでいると槇原ファンに叱られそうです。

でも、いつか彼と音楽を通じて邂逅したいと願っています。
 

 
「京浜賭博地帯」動画
 
 
 

 
キッチン馬鈴薯[2015年作]
 

この歌は最近のライブではずっと聴衆参加ソング(笑)として、最後の「ラララ キッチン馬鈴薯」という部分を歌ってもらっています。

かわもと定番ソングの1つですね。

実際、この歌を作ったことで、音楽を続けていこうという決心が生まれたとの言える、記念碑的な作品だと思っています。
 
【楽曲誕生のエピソード】

たびたびライブMCでも話している通り、私が大学時代(というより、大学の近くに住んでいた時代、というのが正しいですね)にバイト先の定食屋『キッチン馬鈴薯』で、ひとかたならぬお世話になったマスター夫妻に捧げる歌です。

いつも腹を空かせていた私は、そこで出してくれる賄いご飯がなかったら、文字通り飢え死にしていたのではないかと思うほどで、本当に命の恩人とも言える人たちなのです。

歌の中にも登場するように、数あるメニューのうち、一番人気は「ジンギスカン定食」で、豚のバラ肉をラードで炒め、秘伝のタレをかけてあるのですが、あれは絶品でした。

賄いにジンギスカン定食を食べさせてくれる時はバイトの仲間うちではしばしば「オレは毎日ジンギス(厨房に注文を通す時の符丁)でも生きていける」という会話がなされていたのを思い出します。

今、最後の晩餐に何が食べたいかと訊かれれば、迷いなく「ジンギスカン定食」と答えることでしょう

漫画化されて、「思い出食堂」(少年画報社・刊)にも掲載されましたが、残念ながらマスター夫妻の情報は全く届きません。

ちゃんとお礼を言いたいのです。

生きていてくれるとよいのですが...


【詞への思い入れ】

自ら好きな歌詞は「都会に慣れない僕たちを優しく迎えるレストラン 相席も構わない 僕も優しくなれる」というところです。

東京は基本的には田舎者の街ですが、その巨大さゆえに自分が拒絶されているのではないかと感じる若者も多いですよね。

学生街にある定食屋はそうした疑心暗鬼を溶かしてくれる存在でもあったわけです。

マスターは愛想がいいとは言い難い人ではありましたが、それでも心の中では早稲田の学生達への愛情は、来店した人にはわかるという類のものでした。

2番冒頭の「人気のメニューはジンギスカン ラードで炒めた豚バラに 秘伝のタレをかけて 魔法の味に変える」というのはまさしく実感です。

馬鈴薯でバイトさせてもらって以来、最も好きな肉が豚バラというひじょうに安上がりな体質になったことにも感謝ですね(笑)
 
「キッチン馬鈴薯」動画
 
 


 
あの娘に横恋慕[1988年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

1986年〜1988年頃というのは、それまでのかわもと的楽曲から敢えて外れるようなものを作りたいという野心に満ちていました。

『京浜賭博地帯』や『スゥスゥ』 といった、現在でもライブで演奏される楽曲はもちろん、その他ほぼ埋もれてしまっているようなものも、ある種の決意を以って作っていました。

年齢が20代の終りに近づいて、音楽で食べて行ける目途も立たず、ただ新しい楽曲を創る意欲だけは異様にあって...

曲を作るためのヒントをいつも探し、気持ちは日々尖っていました。

ある種のソングライターハイ状態だったと言えましょう。

しかし、現実的には東京で頼りにしていた「いとでんわ」というライブハウスが閉店して、身の置き場も心の拠り所もないまま、生活のためにバイトせざるを得ず、その合間を縫って曲作りをしていたわけです。

コンビニの夜勤(12時間ずっと一人だけ!)の仕事も随分長い間続けましたが、店にはBGMとして常に有線放送が流れていて、私はいつも最新のニューミュージック系の楽曲を仕事をしながら聴いていました。

ある夜、どこか聞き覚えのある歌声が流れてきて、もう理由はわからないのですが、コンビニのレジカウンターの中で嗚咽してしまいました。

その曲が岡村孝子の『風は海から』でした。
(もちろん初めて聴いたので、その時は誰が歌っているのかも、タイトルもわかりませんでしたが)

『待つわ』という楽曲がYAMAHAポプコンでグランプリを獲り、初めてテレビでその曲を聴いた際、衝撃が走ったことを憶えています。

特に「青く広いこの空 誰のものでもないわ 風にひとひらの雲 流して流されて」と歌うBメロが、嫉妬するほどよく出来ていると感心したものでした。

しかも、岡村孝子のビジュアルは私のストライクゾーンにズバリでした...(笑)

それがどうやら1982年のことらしく、彼女は(というか、あみんは)その後ヒット曲に恵まれぬままフェードアウトしていったのかと思っていました。

俗に言う「一発屋」なのかと。

『風は海から』 は1985年の終わり頃の発売されたようで、どういう経緯でその曲が作られ、世に出たのかは知る由もありませんが、真夜中コンビニで有線放送から流れる彼女の歌は、勤労する青年かわもとひろのぶに突き刺さったのでした。

「岡村孝子も不遇の時代もあったけど、頑張ってこの歌を世に送り出すまでになったんだ...」と感慨深かったです。

前置きが長くなりましたが、『あの娘に横恋慕』という歌の妄想上のモデルはその岡村孝子であり、彼女の『風は海から』に強烈にインスパイアされた楽曲だということです。

彼女はその後『夢をあきらめないで』などの大ヒット曲も出しましたが、私にとっての岡村孝子は不遇の時代を経て『風は海から』を世に送り出した、健気な頑張り屋さんというイメージです。


【詞への思い入れ】


童謡『かくれんぼ』に着想を得て(「横恋慕」と音が似ているから、という理由ですが)、また、“男版「まちぶせ」(ユーミン作詞・作曲)”“男版「待つわ」(岡村孝子作詞・作曲)”という世界観を意識しつつ、作ってみました。

密かに思っていた“あの娘”を自分の親友“あいつ”も好きになってしまう...

実際によくある話ですよね。

せつない気持ちを抱えながら、あいつの気持ちをあの娘に伝えたら、彼女が喜んで...

ま、あとは歌を聴いて頂ければ(^^♪

ちなみに、この画像に使わせてもらったのは、茅ヶ崎在住の横田英彦さん撮影の写真です。

この写真の幻想を超える楽曲を創りたいなぁと真剣に思います。

横田さん、ありがとうございました。

 
「あの娘に横恋慕」動画
 


桜の花が咲く頃に[2016年作]
 
今年も入学式シーズンが到来中ですね。

特に中学校の入学式というのは、子どものこれからの体の成長を考える親がやや大きめの制服を着せているという情景が、微笑ましく、見るたび、気持ちが和みます。

【楽曲誕生のエピソード】


2016年早春に行われた、私の母校である茅ヶ崎市立鶴嶺中学校の卒業40周年の同窓会のテーマソングとして書き下ろしました。

中学時代というのは、混沌の時代であり、大人になる前のあらゆる原体験をさせてくれたステージではありますが、それゆえ、どういう切り口から作ってゆくか、ということは悩ましかったです。

入学から卒業までを紙芝居風に、ある意味淡々と描いてゆこうと決めたら、そこから先は猛烈な勢いで録音まで至りました。


【詞への思い入れ】

1番の「部活帰りに飲み干すチェリオ なぜかとてもおいしい」という歌詞が出来た時、そこから先の世界観がほぼ出来上がったと言えましょう。

チェリオは当時の部活帰りの少年たちの定番でしたからね。

そして、何よりも、あの頃の友との別れ際の言葉が「じゃあまた明日ね」に代表されることを、歌を作りながら思い起こして、キーフレーズに据えました。

自分で気に入っているのは3番冒頭の「目立たぬ人で穏やかで 時折笑顔可愛くて 奥手な僕も恋をして そして敗れ去ったよ」というところです。

中学時代の恋って、ほぼ実体がないというか、好きだという気持ちだけで胸がいっぱい。

淡くて、せつなくて...
 
「桜の花が咲く頃に」動画
 
 


相模線旅情[2017年作]
 
【楽曲誕生のエピソード】

2017年2月のとある寒い深夜。

素っ裸になり、風呂に入ろうとしている時に突如それは降りてきました。

楽曲が“出来る”時というのはたいていそうなのですが、とにかく唐突なのです。

かつては、路上で自転車に乗っている時に「すげぇメロディ」(たぶん)を思いついて、それを忘れないように、必死で楽器やテープレコーダー(笑)のあるところまで歌い続けてたどり着いた時には、「あれ、何だっけ?」とか「こんな陳腐なメロディだっけ?」という事態になっていることもしばしばでしたが、今はサイズの小さい録音機やスマホがあるので便利ですね。
(但し、私はその便利さがあまりよいものだとは思っていません)

そして、とにかく忘れないように、素っ裸のままスマホを取って来て「♪相模線は走る〜♪」というサビの部分を録音した次第です。

この歌を歌うたびに、その時の寒かった記憶が甦ります。


【詞への思い入れ】


相模線はそこはかとなくかわいい。

ドアを手動で開け閉めするところや、単線を申し訳なさそうに走っているのも好ましい。

そして何よりも、この列車に乗っていると、そこにいる見知らぬ人たちの背景にあるものを想像する気持ちにさせられる。

この人は仕事に疲れているのかな、とか、この人はつい最近恋に破れたのかな、とか。

そうした妄想を自らの来し方と重ね合わせて、この歌の詞が出来ました。

特に自分で気に入っているのは「相模線は走る 無人駅 わだかまる気持ちを許すように」「相模線は走る 徒然に 尖りそうな僕を諭すように」という部分です。

もうね、それは自分に言い聞かせるように紡ぎ出した言葉でした。

だから、今もライブで歌うと、思い入れが溢れて泣きそうになります。

今度のライブで泣いたらごめんなさい。

 
「相模線旅情」動画
 
 

スゥスゥ[1987年作]
 
この曲はしばしば「どこが舞台ですか?」と尋ねられます。

歌を1回聴いただけではなかなかわかりづらいのかもしれませんね。

外務省に勤める大学時代の友人から、たまたま酒席で「ミャンマーの女の子はパンダみたいな名前が多くて、今でも(1980年代中盤の話ですが)川の中で髪を洗ったり、洗濯している」という話を聞き及び、沸々と創作意欲が湧いたのでした。

私は楽曲を作る際、時として登場人物に出身地・年齢・性別・履歴・性格といったものを仮に割り振りすることがありますが、この曲では19歳の乙女スゥスゥはイラワジ川流域に住んでいて、ロシアに放浪の旅に出た恋人ピルミンの帰りを待つというのが原風景でした。

ミャンマーには行ったこともなく、どんな空気感なのかも全て想像で作りました。

スゥスゥの乙女心を描くというより、なるべく彼女の背景にある絵を描くことで、その心情を伝えられればという思いでした。

この曲はイメージとしてはトワエモアの元ボーカリストである白鳥英美子さんが歌ってくれたら嬉しいなぁと思って作った記憶があります。
(当時、キングレコードのスタジオで彼女が録音するのをたまたま見ていたからかもしれません)

そして、あるライブハウスでこの曲を弾き語りで演奏しているのを聴いてくれた人が、のちに私のアレンジ(オリジナルバージョン)とは別のアレンジ(シルクロードバージョン)をしてくれ、さらにはそのアレンジを聴いた別の人が斬新なアレンジ(フォレストバージョン)をしてくれたという経緯もあって、3つのアレンジは聴く人によって好みは大きく分かれます

余程お時間のある方は3つとも聴いて、感想をお聞かせ下さいませ(^^♪

ちなみに、ライブではオリジナルバージョンに近い演奏になる予定です。
 
「スゥスゥ」オリジナルバージョン
 
「スゥスゥ」シルクロードバージョン
 
「スゥスゥ」フォレストバージョン
 


モザイクの町
 
この曲の映像はありませんので、ご了承下さいませ
 
2018年作
 

この楽曲は「巨大な権力を握る個人・組織により核ボタンが押されたあと、世界が再び始まるまで」をテーマとしていて、実は30年以上もそのタイトルと世界観を温めていた(というか、作品に至らしめるモチベーションがなかった、というのが正しいかも)のですが、昨今の世界情勢にちょっとした恐怖を覚えたことをきっかけに、“どうしても作り上げなければ”と思った次第です。

しかし、30年以上眠ったままであった作りかけの作品が、簡単に仕上がるほど甘くはなく、「もうすぐ出来上がりそうなのに、なかなか出来上がらない」とじりじりしながらの約1週間。

ツラいけど、至福の時間を過ごし、遂に楽曲の完成に至りました。

何かを世に送り出すというのは、大変ではありますが、ものすごい自己満足感があるものですね。
(聴いた人が満足するかどうかについて、責任は取りかねますが...)